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「あなた方が私の主に祈らないのなら、かれはあなた方を構ってくださらないであろう」
(第25・識別章77)
第一のポイント
お祈りは、アッラーにしもべとしてお従いすることにおける、偉大な神秘である、。おそらくは、しもべであることの真髄そのものであろう。多くのところでも述べてきたように、
お祈りには三種類ある。
一種類めのお祈りは、天分・能力のことばによるものである。全ての穀物や種は、その能力という言葉によって全てをその目的に応じて最適に創造されるお方に
お祈りをするのである。「あなたの美名のはたらきを鮮明に示すために、我々を成長させてください。大きな木にならせてください」
この、能力ということぱによるお祈りのうちの一つが、次のようなものである。すなわち、物事のきっかけが一つに集まること、これは、その物事の成立のための一つのドウアーである。すなわち、この「物事のきっかけ」たちはそれぞれ任務を得ており、、その任務は、そのあり方によって意味を持つことになる。そして、結果を、偉大で全てにカが及ぱれるお方に
お祈りし、そのお方から求めるのだ。
例えば、水や温かさや大地は、あたかも一粒の種のために任務を負っているかのようである。その任務は一種のお祈りのことぱであり「この種を木になさってください、われらが創造主よ」と言っているのだ。偉大な力の奇跡である一本の木が、意識もない、生命も持たない、単純な物質群に任されることはあり得ないからである。委託することは不可能である。つまり「物事のきっかけ」が一つに集まることは、一種のドウアーなのである。
二種類めのお祈りは、被造物が生まれながらにして持っている必要性ということぱによるものである。全ての命あるものにとって、その能力を超越していたり、思うようにできなかったりする要求や望みを、思いがけないところから、それぞれにふさわしい時期に、与えられるために、無限に慈悲深く全てを創造されるお方に対しての
お祈りである。それらの能カやできる範囲を超えているものは全て、それらが知らないところから、それぞれにふさわしい時期に、慈悲深く全てを創造されるお方から与えられるのである。白らではどうしようもないのだ。つまり、その恵みは一つのドウアーの結果なのである。
この世界全てから、神の御前へと続く扉へと上っていくお祈りである。物事のきっかけであるものは全て、結果をアッラーから求めるのである。
三種類めのお祈りは、必要に迫られた時の、意識を持っ生物によるお祈りである。これは二つに分けることができる。もし、他にどうしようもなく選択肢がもう残っていない状態に達していれぱ、あるいは生まれながらにして持っている必要性に完全につながりがあれぱ、あるいは能力ということばに近いものであれぱ、あるいは、純粋で偽りのない心からのものであれば、その
お祈りが受け入れられる可能性は高い。人類の進歩の大きな部分、そして発明、発見の類は、一種のドウアーの結果である。物質的な奇跡と思われている物事や発明に関して誇るべきと思われている命令などは、精神的な一種の
お祈りがもたらしたものである。偽りのない、能力と言うことばでもって求められたのであり、彼らに対して与えられたのである。能力という言葉や生まれながらの必要性という言葉によって行なわれた
お祈りでも、妨げにならなけれぱ、そしてイスラーム法の範晴のものであれぱ、常に受け入れられるのである。
二つめのものとは、よく知られているお祈りのことである。これも二種に分けることができる。一つは行動によるものであり、もう一つはことばによるものである。例えば、農地を耕すことは行動による
お祈りである。恵みは土から与えられるのではない。土は、恵みの宝庫の扉であろう。だから、扉である土を、すきでもってノックするのである。残る一方の詳細については省くが、ただことばによるドウアーに秘められたいくつかのことを、次のところで説明していこう。
第二のポイント
お祈りの影響は大きなものである。特に、お祈りが恒常的に行なわれれぱ、その結果をもたらすことは可能性の高いことであり、おそらくは普遍のことである。さらには次のようにいってもよいかもしれない。すなわちこの世界が創造された理由の一つが、
お祈りである。
つまり、世界の創造の後、人類を初めとして、その先頭に位置するイスラーム世界、そしてその頂点に位置される預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の偉大なドウアーは、この世界の創造の理由の一つである。世界を創造されたお方は、将来、そのお方が人類の名にかけて、おそらくは彼らの存在のために、永遠の幸福を、アッラーの美名の顕現を求めるであろうことをお知りになり、その
お祈りを受け入れられ、世界を創造されたのである。
お祈りにはこれほどの重要性があり、広いものなのである。だから、1350年もの間、常に、30億の人類と、ジンや人間や天使や霊的存在の中から数え切れないほどの偉大な存在たちが一緒になって、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)について、アッラーの大きな慈愛と永遠の幸福、御意志がかなえられることを願って行ってきた
お祈りが受け入れられないということはあり得るだろうか。これらのお祈りが拒否されることは、どのような形であれ、あり得ることだろうか。
これほど恒常的で、広く続けられ、能力ということぱで行なわれ、生まれながらに持っている必要性という段階に達しているのであるから、当然のこととして預言者ムハンマドは(彼の上に平安あれ)、ドウアーの結果として、しかるべき素晴らしい段階に位置されているのである。人間の全ての頭脳が一つに集まって、一つの頭脳となったとしても、その段階というものを完全に把握することは不可能である。
そう、ムスリムよ。審判の目にあなたの仲裁者となる、このお方が存在するのである。このお方の仲裁をその目受けることができるためにも、預言者のスンナに従いなさい。もしあなたが「そのお方はアッラーが愛されるお方なのであるから、これほどのサラワートや
お祈りがなぜ必要なのか」と尋ねるなら、次のように答えよう。「そのお方(彼の上に平安あれ)は、全てのウンマ(共同体)の幸福にかかわりのあるお方であり、各種の共同体のいろいろな形の幸福を感じられ、またあらゆる形の災難にお悩まされになるのである。自らに関する幸福の段階や完全さが無限のものであると同様に、無限の種類のウンマの、無限の時における、無限の種類の幸福を熱心に望まれておられるお方、そして無限の種類の幸福の顕示であられるお方は、当然のこととして無限のサラワートや
お祈りにふさわしいお方であり、またそれを必要とされているのである」
もしあなたが「時には、絶対に実現するであろうことにっいてもお祈りされる。また時には、絶対にあり得ないようなことについてもお祈りされる」と言うのなら、次のように答えよう。「他のところでも述べてきたように、
お祈りは一つの崇拝行為である。しもべは、自らの非力さ、弱さをお祈りによって明らかにする。表面的な目的はそのお祈りの、そしてお祈りという崇拝行為の時を告げる。
真の効用ではない。崇拝行為の効用というものは、あの世におけるものである。この世的な目的がかなわなかったからといって、『あのお祈りは聞き届けられなかった』ということはできない。おそらくは、『まだあの
お祈りの時は来ていない』というべきであろう」それから、全ての信仰の民がその全ての時において止むことなく、真に心から必要性を感じ、お祈りして望んできた永遠ある幸福が、彼らに与えられないということも、あり得ることだろうか。世界全てが証人となっている無限の慈悲深さをお持ちのお方がこれら全ての
お祈りを聞き入れられず、永遠の幸福を存在させられないということがあり得るだろうか。
第三のポイント
ことぱによるお祈りでアッラーから何かを求める場合の結果は、二種類に分けられる。求めたそのままの形で受け入れられるか、あるいはさらに適したものが与えられるかである。例えぱ、誰かが男の子を望んでいたとする。神は聖マリヤム(マリヤ)のような女の子を与えられる。
「彼のお祈りはかなえられなかった」ということはできない。「さらに適した形で聞き入れられた」といわれるべきであろう。あるいは、この世での幸福のために
お祈りするが、あの世においてそれがかなえられる。「彼のお祈りは拒否された」ということはできない。「もっとよい形で受け入れられた」といわれるべきである。他にも同様の例は多くあるだろう。
神は全てを支配されるのである。我々は神に望み、神も応えられる。しかし、その英知によって、我々に対処されるのである。病人は医者の英知を非難することはできない。病人は蜜を求め、医者はそのマラリアの病のために別のものを与える。「医者は私の言うことを聞かなかった」ということはできない。病人の訴えを聞き、それに応えたのである。その目的にかなったことをおこなったのだ。
第四のポイント
お祈りの最も素晴らしく、よい果実、結果とは、次のようなものである。お祈りをする人は気づくことになる。彼の声を聞きとどけ、苦しみに解決をもたらし、憐れんでくれる存在があるのだということに。そのお方の力は全てに対して十分である。この巨大な世界で、彼は一人ぼっちではない。ある、偉大なお方が存在する。彼の世話をされ、親しさを与えられる。彼がきりもなく必要とするものをかなえられ、彼の無限の敵を倒すことのできるお方の御前にいる自らを想い、心のやすらぎを感じ、この世界ほどに重い荷を降ろして「アノレハムドリッラーヒラヅビルアーレミーン、万有の主、アッラーにこそ全ての称賛あれ」(開端章2)というのである。
第五のポイント
お祈りは、しもべであることの真髄であり、偽りのない信仰のもたらすものである。なぜならお祈りを行なう人は、そのお祈りによって次のことを示しているからである。「全世界を支配されるある存在がある。ささやかな私のこともご存知であられる。一番遠いところにあるような私の目標もかなえられる。私の全ての状態を見ておられ、私の声を聞いておられる。存在する全てのものの声をも聞いておられるのであり、そして私の声も聞いておられるのだ。全てはそのお方がなされているのであり、だから私のささやかな物事についても、そのお方に望むのだ。そのお方から求めるのだ」
ドウアーがもたらす神の唯一性の奥行き、そして示している信仰の光の素晴らしさ、純粋さを見なさい。言ってやるがいい。「あなた方が私の主に祈らないのなら、かれはあなた方を構ってくださらないであろう」(第25・識別章77)に秘められたものを理解しなさい。
それであなた方の主は、仰せられる。「われに祈れ。われはあなた方に答えるであろう」(第40・ガーフイル章60)
 
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