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慈悲深く慈愛あまねくアッラーの御名において
本当に我は、人間を最も美しい姿に造った。それから我は、彼を低く下げた。信仰して善行に励むものは別である。 聖クルアーン、いちじく章6-7
第―のポイント
信仰の光を通して、人間はもっとも高いところに到達し、そして天国に値する価値を獲得する.そして不信心の闇によって最も低いところに落ち、ついには地獄にふさわしい立場になってしまう。信念は人を創造主に結びつけるものであり信仰を通して明らかになる,伸の芸術性のすばらしさと、伸の名による碑文によってその価値を獲得する。不信心が関係をたちそのため神の芸術は覆い隠される。その場合彼の価値は物質的なものでしかなくなる。そしてそれは、―時的な、滅びていくものに過ぎないため、その価値はほとんど何の意味もないものとなる。
もう少しこのことについで説明してみたい、たとえば、人間の手による芸術において、そこで使われた材料の価値と、その作品の価値とはまったく別のものである。時にはそれらは等しいが、時には材料のほうがもっと貴重デあっり、時には5ドルの価値のある美術品が5セントの鉄のようなものから見出されることもある。時として、骨とう品などは100万ドルで売られるかもしれない。それが持つ芸術性と、そしてそれを作った芸術家の輝かしい名前に飾られているからである。もしそれが、スクラップ工場に持ち込まれたら、5セント分の鉄の価値しかみいだされないだろう。
人間も、全能の神の芸術品であり、神のカの、もっとも繊細で優美な奇跡である。もし信仰の光が彼に入り込めば、彼の中にある全ての意味深い刻銘が明らかにされるかもしれない。信じるものとして彼はそれらを意識して読み取り、他のものにもそれを読ませる。つまり、人間における伸の芸術は、以下のような意味付けから明らかになる;『私は全能の神によって作られた創造物であり、全能なる創造主の作品である。私は彼の慈悲と慈愛を明らかにする。』創造主と結びついているという信念は、人間における全ての芸術としての価値を明らかにするのだ。ちっぽけな存在である人間が。これにより高められ、他の全ての創造物に勝る、天国にふさわしい価値を獲得しうる。
しかし、結びつきがないことからなる不信心は、伸の名、数多くの意味深い刻銘を暗闇に押し込んでしまい、それが読まれることはない。もし創造主が忘れ去られるなら、その存在を求める精神的な部分は理解されない。これらの有意義で草原名芸術の大部分と、輝かしい刻銘は隠はれてしまうだろう。―部のものはそれでも目に見えるかもしれないが、その価値は不当に低く理解されてしまうだろう。ダイヤモンドが、ただのガラス玉とみなされるように。彼の重要性は単に、動物として、物理的にしか認められない。そしてそれは短く、あらゆる動物の中でもっとも無力で貧しい存在としての―生を生きるだけのことである。不信心は人間性を破壊し、ダイヤモンドを炭に変えてしまうのである。
第二のポイント
信仰が人間を照らし、その上に刻まれた刻銘を明らかにするのと同様、それはこの宇宙を、そして過去、未来を暗闇から救う。私はこのことについて、私がみたある比較によってこ
のことを説明してみよう。これほ聖クルアーンの次の章が意味するものである。
アッラーは信仰するものの守護者で、暗黒の深みから、彼らを光明の中に導かれる。バカラ章2.257
私は、向かい合う二つの高い山にかかるものすごい橋を見た。橋の下に深い谷があった。僑の上にいた。深い暗闇が世界の全てを包んでいた。私は右側を見た。そこには果てしな
い陰気さに包まれた墓があった。左側を見ると、凶暴な嵐と暗い闇に包まれた恐ろい災
難が密集していた。橋の下を見ると、深い絶壁になっているように私には思えた。この恐
ろしい暗闇に対して、私は薄暗いトーチを持っていた。それを使ってもわずかしか見えな
かった。恐ろしいことが起こった。実に恐るべきライオンと、流、怪物だちが私の周りに現れ、橋をふさいだ。
私は叫んだ。「このトーチは私に困難さしかもたらさない」そして私は怒ってそれを放り投げ、それを打ち壊した。それを壊すや否や、まるで、世界全体を照らす巨大な電気のスイッチをつけたかのように、暗闇は突然四散した。全てがその光で満たされていた。私は私の見た僑が、平野を通るハイウェーであったのを見た。私が見たと思った墓は、青々とした庭園で、祈りや会話の為の集いがしっかりした管理のもとで行われていた。わたしが大荒れであると思っていた左側の絶壁は、広く、気持ちのいい場所で、食事したりレクリエーションを楽しんだりする丘陵であった。そしてわたしがモンスターや竜だと思ったのは、わたしがよく知っているらくだや雄牛、羊ややぎのような家畜であった。私は『信仰の光の為に、神に全ての賞賛を』と唱えた神は信仰するものの守護者で、彼らを暗闇の中から光へと導かれる。
そこで私は我に帰った。すると、この二つの山は人生の始まりと終わりであった。この世での人生と、そして死と復活の間の人生の始まりと終わりである。橋は人生の道のりであった。右側は過去で、左側ほ未来であった。小さいトーチは、人間のエゴだ
つた。それは自己中心で、自分の知っていることだけに頼り、すばらしい意外な事実には注意を払わない。モンスターだと思われたものは、この世界のさまざまな創造物であった。
自分の自我に頼り、不注意の末暗闇に落ちてしまう人は、最初の私の状態に似ている。小さなポケットトーチを持っていて、不十分で見当違いの知識に頼リ、過去を闇に包まれた巨大な墓場とみなし、未来を荒廃と荒れ狂う場とみなし、全能なる神に従順な生き物たちをモシスターとみなす。この章で述べられているとおりである;
「信仰しないものは、邪神がその守護者で、彼らを光明から暗黒の深みに導く」バカラ章257
しかしもしこのような人が神の導きにより彼の心に信心が生まれたなら、そしてもし彼の精神の弊害が取り除かれ、髪の書物に注意を払うなら、彼は私の二番目の状態に似るだろう。宇宙は突然真昼の光を得て、神の光によって満たされ、この言葉を成就するだろう。
『アッラーは、天地の光である』御光章35
そして彼は心の目で、過去が巨大な墓場ではないのを見るであろう。それぞれの世紀で、預言者あるいは聖人の指導のもとで崇拝の義務を果たし、浄化された精神の集まりであることに気づくだろう。それから彼は、信仰の光をもって左側を見る。この世と、あの世と
の間の世界と、あの世との、大きな変革の向こうに準備された天国の庭園の中の至福の宮
殿に気づくだろう。そして彼は理解するだろう。嵐や、地震や、災難はそれぞれ自分の
役目に従順で、それらが見たところは厳しくても実際はやさしく春風や春の雨のようであ
ると気づくであろう。さらに、死についてさえ、彼は、永遠の命の入り口であり、永遠の 幸福へのドアであるとみなすだろう。
第三のポイント
信仰は光であり、強さでもある。実際、本当の信念を得た人は。全宇宙に挑み、そして信念の力によってさまざまな出来事の苦しみから救われる。『私は私の信頼を神に寄せる』というものは、困難な出来事の多い大波の中を、安全な船に乗って旅する。彼は自分の全ての重荷を、絶対的に強力な存在の力に託してこの世を容易に旅し、それからこの世とあの世の間の世界で休む。そしておそらく彼はその後永遠の幸福に入る為に天国に飛び立つだろう。しかし彼がもし神に頼らなければ、飛ぶよりむしろこの世界の重荷は彼を引き下げるだろう。
信仰は、神の存在への確信を必要とし、その確信は神への従順さを必要とする。
「そして神への従順さは伸へ頼ることを必要とする。神への信頼は必ず、この世とあの世における幸福に導くものである。ただしこの、神を信じて頼ることは、誤解されてはいけない。それは、「原因と結果」をまったく無視するものではない。むしろ、さまざまな要因は神のカの手のベールであると知るべきである。それを知ることによって、人は神の意思に従って行動することを望むようになる。それは、ただ全能の神からよい結果を求めることであり、全ての結果はただ彼からもたらせられるのだと理解することであり、神に感謝することである。
このような、神を信頼する人としない人とについては、この話の中の二人の男にたとえることができる。
二人の男が、頭上と背中に大きな荷物を背負い、切符を買って大きな船に乗り込んだ。乗り込んですぐ、彼らのうちの―人はデッキの上に荷物を降ろし、その上に座った。しかしもう―人は、おろかな上に横柄であったので、その荷物を下に置かなかった。もうひとりが、「荷物を下に降ろして、らくにしなさい」というと、彼は答えた。『いや、おかない。なくなってしまうかもしれない。私は強い。自分の荷物は自分で運んでそれを守れる。』
もうひとりがふたたびいった。『あなたと我々を運んでいるこの信頼できる王の船は、もっと強い。それはあなたよりももっといい形で荷物を守ることができる。あなたはそのうちよろついて、荷物と―緒に海に落ちるかもしれない。だんだん疲れてくればカが出なくなるだろうし、荷物が重く感じられるようになるだろう。あなたの頭と背中はそれを支えられなくなるだろう。それにもし船長があなたをこの状態で見れば、彼はあなたの頭がおかしいといって船から追放するか、あるいはあなたが恩知らずな上この船を非難し、冷やかしていると思うだろう。牢に入れることを命じるかもしれない。あなたはみんなの前で自分を馬鹿なものとしてさらしていることにもなる。あなたは、うぬぽれを通して自分の弱さを、自負を通して自分の無能さを示している。結局みんなの前で自分を潮笑の的にしているのだ。みんながあなたを潮り笑っている。』そこでその不運な男は正気に戻った。荷物をデッキに下ろし、その上に座った。そして言った。『神があなたに満足なさるように。私は困難さから、牢獄から、そして自分をばか者にすることから救われた。』
そう、神に信頼を置かない人間よ、あなたもこの男のように正気になりなさい、伸に信頼をおきなさい、あなたは自負のためにいろんな出来事を前にして震え上がることから逃れられるだろう。自分自身を愚か者にすることもないだろう。来世での窮乏と、この世の苦しみから逃れられるだろう。
第四のポイント
信仰が人間を人間にし、他の全ての創造物に勝る存在とする。そのため、人間の最も基本的かつ重要な義務は信仰と崇拝である。不信心は逆に人間を無能な野獣にする。このことの何千もの証明の中で、人間と動物がこの世に生まれるときの差は、決定的で明らかなものである。そう、この違いが、人間性は信仰を通して人間性でありえることを示している。
動物はこの世に生まれくるとき、あたかも別の世界ですでに完成されたかのように、それぞれの機能をすでに身に付けている。それらは日分たちの生活に関わることや、世界との関係、決まりごとなどを2時間あるいほ2日、あるいは2ケ月ですっかり学び、熟達している。たとえばすずめやミツバチのような動物は、20日で生き残る力を獲得し、技術を身に付ける。人間はこれに20年かかるのに対して、である。つまり、動物の原理的な義務ほ学習によって学ぶことではなく、知識を得ることによって進歩することでもなく、又自分たちの無能さを訴えて助けを求めたりすることでもない。ただ彼らが与えられた能力にしたがって行動することである。
人間は、しかし、生まれてきてから全てを学ばなければならない。彼は無知で、20年かかっても生き方について完全に学ぶことはできない。実際、彼は人生の最後まで、学び続ける必要がある。又彼はもっとも弱く、無能な形でこの世に送られてくる。l年か2年かかって、やっと自分の足を持ち上げられるようになるだけである。15年かけてやっと、有害なものと有益なものとの区別をすることができるようになる。しかも、人類の経験という助けを得て、彼に有益であるものを取り、他の有害なものをさけることができるのだ。つまり、人間の生まれつきの義務は学ぶことによって完成されていくことであり、そして神への信仰と従属を嘆願によって明らかにすることである。
すなわちそれはこの問いへの答えを知ることである。『誰の慈悲によって私の命はこれほど賢明な方法で管理されているのか。誰の寛容によって私はこれほど親切に育てられるのか。誰の恵みによって私はこれほど注意深く育てられ、世話をされるのか。』
彼が無力であることや己の貧しさを知ることは、最も高いところへ、神の僕となって、飛ぶとき、二つの翼となるだろう。これは、人間が、知認の神への嘆願によって完成される為にこの世に生まれてくるのだということを意味する。彼の制すつと能カほ全て知識に結び付けられる。そして、真の知識の土台、源、そして精神は神の知識であり、そしてその本質と基礎は神への信仰である。
 
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