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FRIDAY KHUTBA OF TOKYO CAMII
2004年4月23日
テーマ:権利について
ムスリム皆様。
私たちは空気の重要性を、呼吸が出来なくなった時に理解します。社会を支えている要素もまたこのとおりです。日々の生活のせわしさの中で気づかれないままに、それらはその存在を継続させているのです。だからそれらが失われた時にも、社会的規模ですぐに気づかれることはないのです。
私たちを私たちたらしめる価値は、私たちの思想世界や日々の生活において、それぞれ固有の概念としてその位置を保っています。正義、公正、正しさ、これらはその要素のうちのほんの一部です。こういった要素の多くが、私たちの社会的意識において瀕死の状態にあり、またその一部は声もなく去りつつあるのです。
例えば、(アッラーに対してしもべである)人の権利という概念は、私たちの日常生活の中でどれほどの位置を占めているでしょうか。人の権利という概念すら知らない無数の人々が存在してはいないでしょうか。
ムスリムの皆様。
アッラーへの畏怖からもたらされる、人の権利への理解というものは、イスラームの文献では「フクークル・イバード」として記されています。西洋起源の「人権」は、ある意味ではこの世的な観念の産物であり、人をただこの世でのみ生き、考え、生産活動を行なう一つの生物として扱っています。それは人と人との間の関係を取り扱ったものになっています。
「フクークル・イバード」は、権利という概念を創造主と被造物の関係の中で捉えています。すなわちアッラーのしもべたちの権利、という訳です。
この概念に基づいた、人々の間の関係というものは、創造主の監査、管理のもとにあります。しもべである、人間の権利、という概念の基礎にはこのメッセージが存在するのです。
保護を受けない人は存在しません。人は、アッラーが創造され、価値を与えられ、「わがしもべよ」と庇護され、その生を継続させる為に必要な環境を備えられた、
被造物の中で最も栄誉ある存在なのです。だから、人が持っている価値、権利に対して行なわれるあらゆる侵害は、その人の真の主、すなわち創造主に対して行なわれたことになるのです。
ムスリムの皆様。
人間にとって自らの存在とは、彼の手に与えられているアッラーからの信託であることを強調するイスラームは、他人の権利と同じくらい、自らの権利というものも本人に対して守るものです。人はしばしば、「また明らかに自らを損なう」(整列者章第113節)行為を犯すからです。
日中を断食によって、夜を礼拝や崇拝行為によって過ごし、その結果家族のことを失念していたアブー・ダルダに、サルマーン・ファルシーは、それが誤りであることを告げ、
「あなたの上には、アッラーの権利がある。あなた自身にも権利がある。あなたの家族にも権利がある。(さらには、客たちにもまた権利がある。)それぞれの権利の持ち主に対してそれを果たさなければならない。(すなわち、食べ、飲み、断食をし、礼拝をし、そして家族とも関わりなさい。)」
と言ったのでした。後にアブー・ダルダがこのことを預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)に伝えると、「サルマーンは正しいことを言った。」とおっしゃられたのでした。
本日のフトバを、預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)の、しもべの権利に対するハディースによって締めりたいと思います。
アブー・フライラは、預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)が次のように語られたことを伝えています。
「誰であれ、自我や財産による兄弟の権利を果たしていないなら、金銭が通用しない日である、最後の審判の日が訪れる前に、その権利の持ち主の許しを求めなさい。それが得られない場合、もし、権利の侵害者に善行があれば、侵害行為の分だけそれは侵害の被害者に与えられることになる。もし侵害者に善行がない場合は、侵害の被害者の罪が取り除かれ、侵害者がそれを負うこととなる。」
 
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