マハッバとは、愛好、優しく親切な感情、意向、愛を意味します。人の感情をかきたて広がっていく愛は情熱と呼ばれます。非常に深く圧倒的であるがゆえに合一を望んで燃え上がる愛は、熱情や情熱と呼ばれます。
イスラーム神秘主義者たちは愛を、真に愛されるお方と心とのつながり、彼への抑えきれない熱望、あらゆる行為や思考において彼の望みおよび命令を順守しようする必死の努力、そして、合一もしくは再会の時まで「しらふ」になることなく恍惚となり陶酔している状態のこと、と定義してきました。これらの定義は、あらゆる一時的な関係や心配事が取り除かれ、アッラーの面前に「立っていること」と要約されるでしょう。
本物の愛とは、愛する者の心が愛するお方に完全に定まり、心の中で常に彼とともにあり、決して他の欲望や願望を持っていないことです。そのような度合いの愛を有する人の心臓は一瞬一瞬、その愛するお方に対する新たな考察と共に脈打ちます。その人の想像力は常に彼の神秘的な空気の中を飛び回り、その感受性は絶えず彼からの新しいメッセージを受け取り、その意志はそれらメッセージによって活発化され、その人は情熱的に彼に見えることを欲します。
愛の翼を携えて自我を超越し、熱情と情熱によって主に到達する者は、その状態で彼の心の王に向かって自身の責任を履行する一方で、その心は王の視覚に据え付けられています。そうした信者の天性は威厳に満ちたアッラーの光で「焼き焦がれ」、驚嘆の念のうちに呆然となるでしょう。
愛というカップを唇に押し当てながら、不可視のお方にかかるヴェールが一枚ずつ取り払われていくのを目の当たりにしてその人は、ヴェールの背後から差し込む光線の意味を理解して陶酔し、それらの背後にある光景を目にする喜びに恍惚となります。歩むのも足を止めるのもアッラーの命令に従ってなされ、発話はアッラーからもたらされるひらめきにすぎず、沈黙が守られるときはアッラーの御名のもとになされるのです。様々な時に、その人は「アッラーの同伴」のもと、アッラーに向かって旅し、またはアッラーのメッセージを他の人々に伝えることに従事しています。
一部の人々は愛というものについて、アッラーの、卓越した僕に対する愛という文脈において、善をなすこと、服従、献身と定義し、僕のアッラーへの愛という文脈においては無条件の従順と定義しています。イスラーム神秘家の女性ラービア・アダウィーヤによる以下の二行連句はこの意味合いを表現する上で特筆すべきものです。
あなたはアッラーに背きながら、彼を愛することについて語っている。
私の人生に誓って、これは非常に奇妙なことである。
あなたがご自分の愛に誠実であるならば、アッラーに従うであろうに、
なぜなら人は愛する者に従うものだから。
愛は二つの重要な柱の上に成り立っています。一つ目は愛する者の行為によって明示されるもの(愛する者は愛するお方の要望に従おうとします)、二つ目は愛する者の内的世界です(愛する者は愛するお方以外の何ものにも精神的に閉ざされているはずです)。真にアッラーに仕える者は愛について語るとき、このことを意図しています。精神的なものや興味を含め、あらゆる種類の楽しみに対して示される感情的な懸念もしくは愛は、本当の意味での「愛」とは呼べないと彼らは言います。それは比喩的な愛でしかありえないのです。
愛する者が愛するお方に対して感じる愛は誰もが同じ程度というわけではありません。愛は愛する者の精神的かつ感情的な深みによって異なりますし、愛するお方への従順さに関する意識や配慮の程度によっても異なるからです。例えば、道の始まりにいる人々が感じる愛は確立されておらず、一定でもありません。彼らは完全な善行という地位を獲得することを夢見、時にはアッラーの知識の兆候を受け取り、地平に現れた「光」のきらめきに身震いし、そこはかとなく驚嘆や驚異の念を抱いたりもします。
他方で、非常な前進を遂げた者たちは最高地点に向けて愛の楽園を飛翔します。それらの人々は、預言者ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)の立派な道徳の具現、例としてクルアーンの輝かしい気候の中に生きるのです。彼の立派な道徳を体現しようと努めながらも、物質的・精神的な見返りを求めることはなく、快楽を所望することもありません。果実をたわわに実らせた木はその実の重さで枝がたわむのと同様に、その信仰深さを最高なまでに体現しているとしても、それらの人々は謙虚さの翼を低くし、常に愛するお方の名を口にするでしょう。
もし過失や落ち度による衝撃を受けたとしたら、彼らは自身の自我を厳しく非難し打ち勝とうとするでしょう。
そして最後にアッラーの愛に関して最も進んだ状態にある人々は、イスラームの「天国」にある雨雲のようです。彼らはアッラーによって存在を感じ、アッラーと共に生き、アッラーによって見たり呼吸したりします。(アッラーからの)別離という悲しみに満たされアッラーに見えたいと望み、それが取り除かれ空になったときは光線に乗って地上に降り立ち、全存在を取り囲む、ということが尽きることなく繰り返されます。
愛の度合いに関わらず、心からの願望と真摯な熱意をもってアッラーに向き合う人は、気持ちの深さとアッラーを想う意識に応じて報奨を得ることができます。前述の一つ目のグループに属する人々は、特別な恩恵と慈悲を授かります。二つ目のグループに属する人々は、恩寵と威厳の主の属性を感じることのできる地平に到達し、性格的な欠点が取り除かれます。三つ目のグループに属する人々は、アッラーの存在という光に照らされ、物事の真実に目覚め、覆いの向こうに隠された存在の次元に接触することができます。
つまり全能の主は、威厳の主としての光を明示して彼を愛する者たちの肉体的な特質を焼き払い、全聴や全視といったアッラーの神聖な属性の世界へと彼らを高めるのです。彼らがアッラーの御前では貧しく無力であるという事実を十分自覚させ、彼の存在という光で彼らの心を満たすのです。
愛がこの度合いまで達し、アッラーの多大な恩恵を授けられた人は、存在も非存在も超えた永遠の生を獲得します。鉄の棒が火に入れられると火の棒のごとく見えるように、そのような人はアッラーと彼の顕現を区別することができないかもしれません。そしてそれゆえ、感覚や体験を、化身や(アッラーとの)合一といった誤った信仰と関連付けられる言葉遣いで表現することがあります。そうした状況化では、スンナこそが確立された基準であることを考慮に入れなければなりません。
アッラーの愛にひたり、愛に夢中となっている非常に信仰深い個人が発した表現を、彼らを判断する基準として用いることはできません。そうでなければ我々は、「人は愛する者と共にいる」というハディースに言われるようにアッラーが常に一緒にいてくださるという栄誉に預かっているそうした神の友に対して、聖ハディースで「我が友の敵となる者は誰であれ我に戦いを仕掛けたこととなる」と宣言されているように敵意を抱いてしまうかもしれません。

