サキーナ(静穏)は平穏、静けさ、安定、厳粛さ、親密さ、波の沈静、平安を意味し、軽はずみな様子、不穏、揺れ動くさま、優柔不断の反対にあたる語です。イスラーム神秘主義の語法において静穏とは、不可知の世界からもたらされる贈り物に遭遇する結果、次第に静止していく心のことを意味します。そうした安らかな心は常に彼方の世界から吹き寄せるそよ風を心待ちにしながら、細心の注意と冷静さをもってイトゥミゥナーン(平穏)の状態であちこち旅して回ります。この階梯(かいてい)は、直接見ることによって得られる確信の段階の始まりでもあります。その結果、知識からくる贈り物と洞察力を通じて「獲得される」贈り物とが混同され、秘密の真実を観測する地平は曇らされ、(物事の真実に関する)誤った結論が導き出される場合があります。
静穏はその訪れの印を感知できることもあれば感知できない場合もあります。極めて明白に現れるためにごく一般の人々ですら認識できる場合もあります。静穏やその兆しは、最大限の注意を払うことによってのみ感知できる精神的な息吹きもしくは神聖なそよ風に似るときもあります。またある時には、預言者ムーサー(モーゼ)の時代のユダヤ人のように、奇跡的にはっきりと現れるため誰もが目撃することができ、それを授かるもしくは備える資格のある者のもとにしばらく留まる場合もあります。一例を挙げると、ウサイド・イブン・フダイルがクルアーンを朗誦(ろうしょう)中に蒸気か霧に似た何かの一塊に取り囲まれた話があります。
そうした事象は、信者の意志力を強め彼らを肯定し鼓舞(こぶ)するために送られてきたものの顕現だと考えられています。
いずれにせよ静穏は、アッラーを前にして己の無力さや困窮を認識している信者たちのためにアッラーがなさる確証作業であり、「かれこそは、信者たちの心に安らぎを与え、かれらの信心の上に信心を加えられる方である」(クルアーン 48章4節)で述べられているような感謝や熱意の動機となるのです。静穏によって確証を受けた信者は現世的な恐怖や悲嘆、心配に揺るがされることなく、精神界と外界の間に安らぎ、完全性、そして調和を見出すのです。
そうした人は威厳に満ち、均衡が保たれており、確信を持っていて厳粛であり、全能のアッラーとの関係においては冷静かつ注意深くあります。尊大さや虚栄心、利己主義は放棄されています。授かったあらゆる精神的な贈り物はアッラーのおかげであると考えます。アッラーに感謝する際には謙虚さと自制が示されています。そしてあらゆる不平不満や不安の種は自己の弱さに帰され、自己批判によって検討に付されるのです。
安らかさについては、完全なる満足感、いかなる深刻な過失もなく絶対的な静けさのうちにある状態と定義づけられます。これは静穏を超越した精神状態です。静穏が理論的な知識からの解放と真実への目覚めの始まりであるとすれば、安らかさは最終地点もしくは終着駅です。
「ラーディヤ」(服従の点においてアッラーのご満悦を受けていること)と「マルディーヤ」(アッラーの承認を受けていること)の階梯(かいてい)は立派で高潔な信者たちに備わる安らかさの二つの特徴であり、服従の深さであります。「ムルハマ」(アッラーから霊感を受けること)と「ザキーヤ」(アッラーに純化されること)もアッラーの近くに連れて行かれた人々に関連した別の二つの感知が困難な安らかさの度合いです。これらを通じてもたらされる贈り物は純粋で豊潤です。
静穏(せいおん)である魂の中においては、アッラーのご満悦に預かれないような思考や傾向が見られる場合があり得る一方、安らかで静まった魂においてはただ完全なる静けさのみが見出されます。安らかな心は常にアッラーのご満悦もしくは承認を求めており、その良心の「磁針」が逸れることは決してありません。安らかさはそうした「確信」の高尚な段階であるので、そこを旅する魂はどの滞在先でも「わたしの心を安らげたいのであります」(クルアーン 2章260節)についての真実を見出し、様々に異なる贈り物を授けられるのです。その信者はどこにいようとも「かれらには、恐れもなく憂(うれ)いもないであろう」(クルアーン 2章62節)に表されるそよ風を感じることでしょう。そして「恐れてはならない。
また憂いてはならない。あなたがたに約束されている楽園への吉報を受け取りなさい」(クルアーン 41章30節)に表される福音を耳にするでしょう。また「アッラーを唱念することにより、心の安らぎが得られないはずがないのである」(クルアーン 13章28節)という生命を与えてくれる甘美な水を味わうことでしょう。そして物質としての肉体は打破されています。
信者が物質的な要因や手段を超越したとき、安らかさが実感されます。理性がなす超自然的な旅はこの時点で終わりを告げ、精神は現世的な心配事から解放されます。ここで感情は求めるものが何であれそれを見出し、凪(な)いだ大洋のごとく深く広大で穏やかとなります。この地位を獲得した人々はアッラーが一緒におられるという感覚においてのみ最大の平和を見出します。
これらの人々は心の中でアッラーの美や恩寵(おんちょう)に気付き、アッラーに見えるため彼の方に引き付けられるのを感じ、存在はアッラーの存在によってのみ成り立つことや、言葉の力はアッラーが言葉をお持ちになるがゆえに存在することを自覚するのです。この開かれた窓を通じることによって、彼らは自身の有限性にも関わらず、極めて広範囲な能力に及ぶ見聞の力を獲得することができるのです。そして彼らは、その他すべての人がよろめき迷い込んでしまうような非常に複雑な事象の渦の中を安全に旅し、渦から逃れることができます。
心が静穏で安らかな信者はこの世的な不安から解放されることに加え、死と死に引き続く障害物をも微笑みとともに迎え、アッラーからのほめ言葉や祝福を耳にします。「あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中(うち)に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」(クルアーン 89章28〜30節)
死は、生の最も好ましく魅力的な結果だとみなされます。彼らが死を迎えたとき、死後に通過するあらゆる段階において、イブン・アッバースの墓地から聞こえてきたように同様のアッラーから祝福あるいは宣言を聞くでしょう。「あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」
こうした人々は墓での人生を楽園の「岸辺」で過ごし、マフシャル(死後復活した人々が集められる所)を驚異のまなざしと感嘆の念をもって経験し、生前の行いを量る秤を畏敬の念と驚きを抱きながら目にし、橋を、ただ単に通過する必要性から通過し、そして最終的には、安心し平穏と静けさを見出した人々が最後で永遠の安らぎの場所とする楽園に到達するのです。そのような人にとって現世は、信者の永遠の赦しに至る道のりに用意されたアラファ
のようなものです。この世での生活は祭りの前夜であり、来世での生活こそが祭りの当日であるのです。

