心を知る・スーフィズム

 

 イフサーン(完璧な善行)

 

イフサーンは文字通りには二つの意味があります。何かを素晴らしく完璧に行うことと人に便宜を図ることです。クルアーンやスンナではどちらかの意味で使われる場合があります。またあるときには、「カルブ(心・心臓)−2」で預言者ユースフのイフサーンの意識について述べる中で熟考について指摘したように両方の意味を網羅することもあります。


真実を追究する学者たちによると、完璧な善行とは、真実の諸基準に則って思考すること、善や役に立つ事柄をしようとする意図を形成しそれらを実行すること、そしてアッラーが見ておられることを意識しながら崇拝行為を実践することを含む心の振る舞いだとのことです。初学者が完璧な徳に達するには、思考、感情そして観念を確固たる信仰の上に確立した後、イスラームの本質的要素を実践することを通じて、また彼らの心がアッラーからの贈り物を受け取ることができるよう、そしてアッラーの顕現という光によって照らされるよう訓練することを通じて、その信仰を深化させなければなりません。そうした完全な徳のレベルに到達した人だけが、何の見返りも求めずアッラーのためだけに他人のためになることを本当になすことができるのです。


預言者の言葉によると、完全な善行とはアッラーを目にするかのように彼を崇拝することで、なぜならあなたには彼が見えなくともアッラーは必ずあなたを見ているからです。完全な善行の最も包括的かつ正確な意味は、初学者の行動において過ちが皆無なこと、そして常にアッラーの監督を意識していることです。初学者は意思、感情、意識、そして内外の知覚のすべてを使って自らの行動に注意を向けなければなりません。アッラーの監視をこうした度合いまで意識できるようになり、可能な限りの最善を尽くして行動しようと努力する者は、他人のためになることをせずにはいられません。他人の利益を図ることがついには自身の重要な特性となり、太陽から光が放射されるようにその者から発せられるようになります。


他人のためになることを為すという意味合いにおいてのイフサーンは、自分自身に望むことを他のムスリム兄弟にも望むこと、という預言者が示した原則にまとめられます。その普遍的な側面については預言者のハディースで定義づけることができます。


「まことに、アッラーは何事もより優れた方法で行うことを命じられた。もしあなた方が殺すことによって処罰するなら思いやりをもってなしなさい。動物を屠殺する場合も思いやりをもって屠殺しなさい。屠殺する者にはナイフを鋭利にし、動物が苦しまないようにさせなさい。」


善行の意識は好循環の扉を開ける神秘的な鍵のようなものです。その扉を開け明るく照らされた通路に足を踏み入れる初学者は、エスカレーターに乗るかのごとく、神秘的に上昇する「らせん」に入り込みます。この美徳を授けられることに加え、善をなし悪を退けるために正しく自由意志を用いることによって、一歩踏み出すたびに二歩分前進する結果がもたらされるのです。「善いことへの報いは、善いことでなくて何であろう。」(クルアーン第55章 慈悲あまねく御方(アッ・ラハマーン)章60節)タバリーの著述には次のようにあります。


あるとき、アッラーの使徒(彼に平安と祝福あれ)はこの節について教友たちに尋ねた。「この節によって主は何を意図されているか分かりますか?」教友たちは答えた。「アッラーと彼の使徒がよくご存知です。」彼は説明した。「アッラーの唯一性における信仰と善行をわれによって与えられた者の報奨はまさに天国である。」


善行の意識が雨雲のように人の心を占めるようになると、アッラーからの恩恵が土砂降りとなって下ります。「善行をした者には(天国へ入るという)素晴しい報奨があり、また追加もある。」(クルアーン第10章 ユーヌス章26節)という節で述べられているようなこうした心の持ち主は、人間として創造されたことにこの上ない喜びを感じるのです。


善良さをともなってなされた行為の見返りにアッラーからの恩寵が授けられることに加え、アッラーの寛大さと親切さに由来する神聖な贈り物が心にある真摯な意図と引き換えに渡されます。そうした贈り物について述べたり思い描くことは到底出来ません。


健全な心は人を逸脱させることなく真っ直ぐにアッラーへと導きます。そして善良さは心がなす最高かつ最も報いのある行為です。善良さは誠意の坂を上るための最も安全な方法であり、アッラーの承認を受けるという頂点に到達するための最も確実な手段であり、永遠なる証言者であられる神を前にしたときの冷静さの意識です。信仰およびアッラーに対する深い畏怖と尊崇を抱き、善行という翼を携えアッラーに向かって飛び立つ多くの人々のうち、頂上に達するのに成功するのはごくわずかです。

 

いまだ到達することができないでいる人々もそれを目指して最善を尽くすことができますように。頂点に達した人々は、何であれアッラーが嫌われることに対しては醜悪さを感じ、そこには立ち入りません。一方でアッラーが好まれることについては何でも行い、それを習性として身につける心構えができているのです。

 

 

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