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日本が明治維新を迎え、新政府が改革を推し進める中、征韓論に敗れて西郷隆盛が野に下った1873年、アジア大陸の西の果て、トルコ東部ビトリス地方ヌール村では、男の子が生まれた。7人兄弟姉妹の4番目、名はサイード。父の名はミルザ、母の名はヌーリヤェ。この地方はオスマン帝国内にあり、夏は短く、冬は長く厳しい自然環境にあるが、彼は幼いころから大変聡明で、長い夜には、偉大な先人達のマドラサ(神学校)での説教をしばしば聴きに行った。また、洞察力に富み、あらゆることに関心を持ち、自ら問いを発見し自らその答えを見出すという科学的に事物を観察する態度を、自然に親しみ、自然と調和するこの環境で身につけていった。
当時東アナトリアでは神学校で一定のカリキュラムを終了した者にウラマー(先生)の免状を与え、先生として神学校を開くことができた。
9歳になると兄アブドッラーから、イスラームの知識を学んだ。兄は教える資格があるウラマーだった。その後、いくつかの神学校で学び、14歳の時、エルズルムの小さな町のベヤズィト神学校ムハンマド・ジェラリー師の下で、本格的に学んだ。彼は通常ウマラーになるための15年から20年かかるコースをたった3ヶ月で終了し、初めてスィイルトのマドラサ(神学校)でとして教え始めた。このため、彼のずば抜けた記憶力、理解力、洞察力に感嘆したシィルトの高名なイスラーム学者が、「時代の驚異」という意味のベディウッザマーンと呼んだ。
(後に、この呼び名を彼は、彼自身のことではなく、彼の著作リサーレヌール収集のこととして受け入れた。)
それからミラン族のムスタファパシャを訪れ、しばらく滞在し、マルディンへついた。
19歳であった。1876年にナムク・ケマル、ズィヤ・パシャらが憲法を準備し立憲政治を始めた。サイードはそのナムク・パシャの影響を受けた。このマルディンで政治への関心が芽生えた。オスマン帝国の行く末を案じ、自由と愛国心の重要性を強く感じた。
それから、ビィトリスのオメルパシャの家で2年間過ごしその後ハサンパシャの招待を受け、ヴァンと向かった。ターヒル・パシャの保護のもとに彼は8年間滞在したこのヴァンで、ホルホルマドラサで教えながら、歴史、哲学、科学、数学、物理学、天文学など独学で学び、科学的アプローチ、論法、思考法により、クルアーンの真実性をより深く理解できることを確信した。そこで、教育の改革が急務であり、東部アナトリアに大学を設立する必要があると考え、イスタンブールへ出かけた。大学で近代科学と宗教(イスラーム)の両方を並立して学び、それぞれが補完し合うことによって、広い視野から、クルアーンをダイナミックに、理解することが可能となり、より真実に近づくと考えた。彼の構想した大学は「メドレセトッゼフラ」と呼ばれている。大学設立案は1907年の訪問では実現しなかったが、このとき、日本の将校がイスタンブールに滞在していた。将校はイスラームについて学者達にいろいろ質問した。その学者はサイードにその答えを尋ね、そして彼は完璧に答えたという話がある。また、サイードは彼自身が使っていた「祈りの書」と「リサーレヌール(光の便り)収集」の一部をバイラム・ユクセルに与え、この将校に渡そうとした。さらに、このバイラム・ユクセルは、1950年代に日本を訪れ、国立図書館に「リサーレヌール収集」の一部を寄贈した。
1909年、サイードは東部地方の教育改革をスルタンに提言するため再び、イスタンブールを訪れた。都、イスタンブールは第二次立憲政治が行われていた。サイードの急務を要するこの提案はまたもや受け入れられなかった。スルタンと政府の要人たちがこの提案の重要性を理解するのには3年という月日を待たねばならない。イスタンブールのベヤズィトで、彼は自由と立憲政治について「自由への提言」という演説を行った。立憲制はシャリーアに基づく限りクルアーンに反しないよい制度であると理解していた。ポイントは人々が心を一つに、一致団結し、祖国への愛を持ち、教育を重視し、人間として奮闘努力を惜しまず、浪費を控えることにより、自由(独立)は可能となると訴えた。クルアーンの第3章159節と42章38節を根拠に、シャリーアの基づく憲法に制定の必要性を強調した。オスマン帝国は独自の文化習慣を守りながら、西洋文明を受け入れ発展している日本の立憲制を見習うべきだと述べた。確かに日本は1886年憲法を制定し、近代化が推し進められていた。天皇の代わりにカリフを主権とすれば、立憲制は可能である。彼にとって日本はまったく遠い存在ではなかったのである。1909年サロニカの「自由の広場」でも、同様にこの講演を行った。
1909年3月31日ムスリム連合(イッテハーディ・ムハンマディー)のシェイフ・ウェフデティがクーデターを起こした。サイードはムスリム連合のメンバーであったため、嫌疑をかけられ、無実の罪で拘束され、裁判となった。彼は法廷でシャリーアに基づく裁きを歓迎すると共に、イスラームのためにすべてを捧げる覚悟であることを、勇敢に述べた。彼は、一生涯を、クルアーンとハディースに忠実に従って生き抜いた。一人のムスリムの命は全人類の命に価するというハディースもあるように、彼は個々人の命の大切さを十分知り抜いていた。その彼がクーデターに加わることは不可能なことである。彼は無罪となった。
1910年春、東アナトリアのティフリスへと向かった。夏まで、彼は東部アナトリアの町々、部族を訪れ、オスマン帝国を救うためには教育と立憲制の必要性を説いて回った。帝国の危機を理解させ、オスマン帝国の自由がアジアの良い将来にとって重要であり、イスラームの繁栄の鍵であり、イスラーム統一の城壁を設立することとなると東アナトリイアの人々に伝え、彼らに帝国の危機、イスラームの危機に、目覚めるようにと伝えつづけた。
1910年秋から1911年の春まで、アラブ諸国へ旅にでた。ダマスカスのウマイヤモスクでフトバを行った。民族主義を否定し、イスラームのもとで連帯する必要性を説いた。イスラームの現実を直視し、西洋文明と産業の精通者達を養成し、貧困を絶滅し、シャリーアに基づく自由を守り、信仰による勇敢さとそしてイスラームの誇りを持ちつづけることが大切であると述べた。
1912年即位したばかりのスルタン・レシャトと共にルーマニアを訪れた。 6月16日コソバのスルタン・ムラトの墓を訪れ、金曜礼拝を行った。スルタンは、領土内のヨーロッパで、6歳からヘラクレスを英雄と教えられている教育を目の当たりにし、民族主義の芽生えを感じ取った。サイードは再度東部アナトリアの教育改革、大学の設立の必要性をそこで提言し、ついに、彼の念願の大学設立がスルタンに承諾され、旅行から戻るとすぐ大学設立の準備にかかった。しかし、時が悪かった。トルコは大一次世界大戦の渦の中に巻き込まれ、計画は中座された。
 
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