イスラーム勉強シリーズ

 

 イフラースについて

 

「そして論争して意気をくじかれ、力を失なってはならない。」(戦利品章第46節)
「各礼拝を、特に中間の礼拝を謹厳に守れ、敬虔にアッラーの御前に立て」(雌牛章第238節)
「本当にそれ(魂)を清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。」(太陽章第9-10節)
「また僅かな代償で、わが印を売ってはならない。」(雌牛章第41節)


来世における私の兄弟たちよ。クルアーンの奉仕の仲間たちよ。あなたたちは認識していなければならない。
この世において、特に来世のための奉仕において、最も重要な基盤であり、最大の力であり、最も受け入れられる仲裁者であり、最も堅固なよりどころであり、真実への最短の道のりであり、最も受け入れられる精神的ドゥアーであり、最も奇跡に満ちた成功への手段であり、最高の状態であり、最も純粋な、しもべとしての崇拝行為が、イフラースである。


イフラースには、上記のような光と力がある。この深刻な時代において、強力な敵や激しい抑圧に直面し、積極的に教えを変化させようとする動きや逸脱の中にあって、私たちは無力で少数派で困窮状態にある。それにもかかわらず、非常に重要で普遍的な、信仰への聖なる義務、クルアーンへの奉仕が、恵みの神によって私たちに与えられたのだ。当然、私たちは誰よりも、渾身の力でイフラースを獲得する必要がある。イフラースを自分自身に浸透させる必要がある。そうでなければ、私たちがこれまで、神聖な奉仕によって得てきたものは、その一部が失われることとなる。持続しないものとなる。そして私たちはその責任を問われる。


「また僅かな代償で、わが印を売ってはならない。」(雌牛章第41節)この章に含まれるアッラーからの強い禁止の対象となり、永遠の幸福を害する、無意味な、不必要な、有害な、また嘆かわしく自己本位な、些少な、偽善的な感情や、取るに足らない利益のためにイフラースを破壊することは、共に奉仕する兄弟たち全てへの権利の侵害であり、クルアーンへの奉仕に対する非礼であり、信仰の真実の神性さに対する不遜である。


兄弟たちよ。重要な、尊い行為の前には、多くの障害がある。シャイターンはこの活動を助ける人々に争いをしかけてくる。これらの障害やシャイターンに対し、イフラースの力に頼らなければならない。あなた方は、蛇やサソリを避けるのと同じように、イフラースを害するものを避けなければならない。ユースフさま(彼の上に平安あれ)の「主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。」(ユースフ章第53節)という言葉に従い、人に悪をそそのかす我欲を信頼しないようにする必要がある。エゴや我欲があなた方を騙すことのないように。イフラースを獲得し、それを保つために、そして障害となるものを取り除くために、以下の規則があなた方への道しるべとなるだろう。

第1の規則

あなた方の行動は、アッラーのご満悦のためでなければならない。
アッラーがお慶びになられるなら、世界中が腹を立てたとしてもそれは重要なことではない。アッラーが承認されるのなら、全ての人が拒否したとしても何の影響もない。アッラーが慶ばれ、承認されたなら、望まれるなら、必要と見なされるなら、あなた方が要求していなかったとしても、人々に対しそれを承認させられ、同意させられる。だから、この活動においてはただアッラーのご承認のみを目標としなければならない。

第2の規則

このクルアーンへの奉仕を行っている兄弟たちを批判してはいけない。活動を示すことによって彼らに妬みを起させてはならない。


人の手は、もう片方の手と競うことはない。片方の目がもう片方の目を批判することもない。舌が耳を非難することもない。心臓は魂の誤りを見出すこともない。各々は、互いの不足を補い合い、過ちを覆い隠し、ニーズがあれば援助する。それぞれの任務をも援助しあう。そうでなければその人の命が消されるであろう。彼の精神は逃げ去り、彼の肉体も四散する。


同様に、工場の歯車は、お互いと競い合わない。互いを抜かしあうことも、互いを制圧することもない。お互いの欠点を見つけて批判したり、熱意をそいでやる気を失わせたりすることもない。能力の限りを尽くして、全体の目的を達成するために助け合う。真の団結、真の統一のうちに、それらが創造された目的の為に進む。ほんのわずかであれ攻撃や制圧が行なわれたなら、それは工場を混乱に投げ入れ、稼動させなくなる。工場主も、その工場全体を破壊し、処分するだろう。


『光の書簡集』を学ぶ人々、クルアーンへ奉仕する人々よ。あなた方と私たちは、完成された人間という名に値する、集合体を構成する単位なのだ。私たちは、永遠の生における永遠の幸福をもたらす工場の歯車のようなのだ。救済の岸辺に預言者ムハンマド(彼に祝福と平安あれ)のウンマを運ぶ主のボートで働く係のようなものなのだ。4人の力を1111人の力に変えるイフラースの神秘を得て、真に団結し、一致協力することが必要なのは当然である。


そう、3つのアリフの字がそれぞれバラバラであれば、それらは計3の力にしかならない。しかしそれらが団結するなら、数の神秘を通して、111(百十一)になるのだ。4つの4がそれぞれ別々にあれば、それは全部で16にしかならない。しかし、兄弟愛の神秘と目標への一致、任務における協力によって、これらが一体となって一つのライン上に並ぶなら、その時それは4444(四千四百四十四)の力と価値を持つのだ。真のイフラースの神秘によって、16人の献身的な兄弟たちの精神的な力と価値は4000以上になるということを、歴史上の多くの出来事が証明している。


この神秘には、次のような事実が秘められている。
真の、心からの一致、協力によって、人はそれぞれが他の兄弟たちの目によっても見て、耳によっても聞くことになるのだ。10人の真に結びついた人々は、それぞれが20の目で物を見、10の知恵で考え、20の耳で聞き、20の手で仕事をする。こういった形で、精神的価値と強さが生じているのである。

第3の規則
全ての力が、イフラースと真実にあるということを知っていなければならない。
そう、力は真実にある。イフラースにある。誤った道を行くものですら、その道におけるその純正さと誠実さによって力を得ているのである。


力が真実とイフラースにあるということの一つの証拠は、我々のこの活動である。私たちの奉仕における純正さは、この主張を証明し、それ自体の証拠となる。20年以上にわたり、私の故郷、そしてイスタンブールで行なってきた教育、宗教的奉仕に対し、ここで行なわれたことはほんの7.8年でその100倍にもなる。私の故郷、そしてイスタンブールでは、私を援助する人がここで私と共に働く兄弟たちより、100も1000も多くいた。ここでは、孤独で、援助する人もなく、無力な状態で、半文盲であるにもかかわらず、また無慈悲な当局の監視下、迫害下であるにもかかわらず、あなたがたと行なってきた活動は以前の100倍もの成功を示している。この精神的な力は、あなたがたのイフラースからもたらされたのだと私は疑いもなく確信している。


また私は、あなた方の心からのイフラースによって、名声、名誉といった覆いの下で私の我欲をおだてる偽善から、私をあなた方がある段階、救ったということも告白しよう。インシャッラー、完全なイフラースによってあなた方は成功し、私にもそれを得させることだろう。


聖アリー(アッラーが彼にお慶びくださいますように)はその不思議な奇跡によって、また聖ガウス・アル・アーザムはその驚くべき幽玄界への展望によって、イフラースの神秘を通してあなた方に栄誉を与えていることはご存知だろう。そして私たちを慰められ、あなた方の活動に、精神的な意味で拍手を送っているのだ。そう、確信してほしい。彼らのこの好意はイフラースのためにもたらされる。もし、故意にこのイフラースを害するならば、彼らからの一撃を受けるだろう。第10の光に記した「慈悲の一撃」を思い出してほしい。


このような霊的な英雄があなた方の後ろには、いる。あなた方の上に立つ導き手を求めているのであれば、
「自分(援助者〔アンサール〕)自身に先んじて(かれらに)与える。」(集合章第9節)


の章句の神秘により、あなた方は完全なイフラースを得てほしい。あなた方の兄弟の我欲を、あなた方の我欲、名誉、地位、賞賛、さらには物質的利益のような我欲の気に入るようなものよりも優先させてほしい。この上なくすばらしい信仰の事実を、それを必要としている信者に伝えることは、最も罪のない、害のない利益である。可能であればあなた方の我欲にうぬぼれが生じないよう、我欲が望まない友人とそれを行なうことが、あなた方の気に入るようものになるよう、努めなさい。もし「私は善行を得る。このすばらしいテーマを私が説明しよう。」という思いがあなた方にあれば、それはもちろん罪でもないし有害なものでもないが、あなた方の間にあるイフラースの神秘には害を与え得るのだ。


第4の規則
兄弟たちの長所をあなた方に上に生かし、彼らの徳をあなた方自身に生かし、彼らの名誉によって感謝と共に誇りを抱くこと。


スーフィーの人々の間では、「フェナーフィッシャイフ」(シャイフと認めた人物に、全ての自我を消滅させ、従うこと)「フェナーフィッレスール」(聖預言者−彼の上に平安あれ−に、全ての存在、自我を消滅させ、従うこと)という言葉が用いられる。私はスーフィーではないが、このことは私たちの活動においても「フェナーフィル イフヴァン」(イスラームの兄弟、共に活動を行なう親友たちを自分よりも優先させ、自我を抑え、献身によって一体となること)という形でよい規則となる。兄弟たちの間ではこれを「テファーニ」という。すなわちお互いに自己を消しあうことである。

 

つまり、自らの自我による感情を忘れ、兄弟たちの優秀性や感情によって生きることである。
そもそも、私たちの道の基盤は、兄弟愛である。父と子、シャイフと師弟といった関係ではない。真の兄弟としてのつながりがある。もし他に何かが彼らの関係の中にあるとすれば、導き者という存在である。私たちの道は緊密な友情によってあり、私たちの本質もそこにある。緊密な友情は、最も親しい親友、最も献身的な親友、最もよく評価する僚友、そして最も高貴な兄弟であることを必要とする。この友情の本質は、本当のイフラースである。真のイフラースを損なう人は、この友情の高い塔の上から落ちる。非常に深い穴に落ち込むかもしれない。途中で掴むべきものは何も見出せない。


そう、道は二つ見える。クルアーンの大きな道である、私たちのこの道から今離れていった人は、私たちの敵である、反宗教勢力を知らず知らずのうちに助けることになる可能性もある。インシャッラー、「光の書簡集」の道から、クルアーンの奇跡の言及の神聖な境界に入っていく人は、常に光に、イフラースに、信念に力を尽くし、深い穴に落ちることはないであろう。


クルアーンへの奉仕を行なう仲間たちよ。イフラースを得、維持するための最も効果的な手段は死を見つめることである。そう、イフラースを損ない、偽善やこの世的なものに人を押し流すのは欲望であり、偽善に対する憎悪を引き起こし、イフラースを獲得させるものは死を見つめることである。死について考え、この世がはかないものであることを理解し、我欲の画策から逃れることである。スーフィーの人々は、クルアーンの


「誰でも皆死を味わうのである。」(イムラーン家章第185節)

「本当にあなたは(何時かは)死ぬ。かれらもまた死ぬのである。」(集団章第30節)


といった章句から学び*、死を凝視することを彼らの行為の基盤としている。欲望の根源である、永遠であるという幻想を、死への凝視によって取り払うのである。彼らは自分が死んでいると見なし、洗われている、墓に置かれていると想像し、考ることによって、思い上がった自我がその種の幻想のとりこになることを放棄する。この熟考には多くの利点がある。ハディースも、「快楽を払いのけ、それを苦いものとする死を何度も想念しなさい。」とい、この死への凝視を教えている。


しかし私たちの道はスーフィーではなく、現実であるから、この死の想念をスーフィーの人々のように仮定や想像という形で行なうことは、私たちには強要されない。真実の道、という観点からも適切ではない。終わりを考えることによって将来に備えるのではなく、現実という点で、現在から将来へと思いを馳せること、その観点から見ることであろう。そう、仮定や想像といったものを必要とすることもなく、この短い寿命という樹木のてっぺんにある。たった一つの実である、自分の死体を見ることはできる。それにより人は自分の死を見るが、もう少し進むなら、その人は時代の終わりをも見出すことができるだろう。さらにもう少し進めば、世界の終わりをも目撃し、完全なイフラースにいたる道が開けるだろう。


2つめの手段として、確信を持った信念の力を通し、そして「あらゆるものを芸術的美しさで創造されるアッラー」という結果をもたらす被造物への熟考によって生じる輝きによって一種の安らぎを得、真の創造主の御前にあることを思い、そのお方以外の何者の好意も求めずにいること。そしてその御前において他のものを見たり、助けを期待したりすることが主の御前における適切な振舞いにまさに逆行するものであることを考えるこちによって偽善から救われ、イフラースを得ることができる。


しかし、これには多くの段階、ステージがある。それぞれが自分の持分に応じて利益を得るなら、それはそれで益なのである。「光の書簡集」において、偽善から逃れ、イフラースを獲得するための多くの真実を語ってきたので、それを参照してもらうこととし、ここではこの議論を短く切り上げたい。
イフラースを損ない、偽善へと導く多くの要因のうちいくつかを述べよう。

第1の要因
物質的な利益といった観点からの競いあいは、少しずつイフラースを損なわせる。活動の結果にも有害である。かつ、その物質的利益をも逃してしまう。


そう、真実とあの世の為に努力する人たちに対し、この国の人々は敬意を感じ、常に援助を行なってきた。そして彼らの真実のイフラースと誠実な活動にある意味自分たちも加わるため、彼らの必要とするものを確保し、また彼らの時間を無駄にさせないよう、サダカや贈物といった物質的な利益によって援助を行ない、敬意を示してきた。しかしこの援助や恩恵は求めるべきものではない。与えるべきものなのである。かつ、心から望んで期待することによっても、言葉という形によっても、それは求められるべきではない。それは思いもしなかった結果をもたらすかもしれない。あるいはイフラースが損なわれるかもしれない。


かつ、「また僅(わず)かな代償で、わが印を売ってはならない。」(雌牛章第41節)という章句で禁じられていることに近づくことになる。崇拝行為がだめになってしまう。


このように物質的な利益を望み、期待することは、次第に、高慢な我欲と自己中心主義により、その利益が他人に与えられるのを防ごうとして、真の兄弟や仲間たちに対し競うという感情をもたらす。イフラースは損なわれる。活動の神聖さは失われる。真実を生きる人々の目に不愉快なものとしてうつる。そして物質的利益も失われる。


このテーマは多くの論議を生じさせるものであるが、ここでは短く切り上げたい。ただ、真の兄弟たちの間における本当のイフラースと結びつきの力を強めるであろう、2つの例をあげる。

第1の例:この世界に重きを置く人たちが、豊かな富や強い力を得るため、さらには一部の政治家や、人間の社会生活における支配者が、財産の共有という原則を自らの指標とした。その力の乱用と有害さにもかかわらず、彼らは驚くほどの力と利益を得る。しかし資産の共有は、多くの害があると共に、共有することによってその本質は変化しない。各々は全体に対し、ある観点においては持ち主であるが、そこから利益を得ることはできない。


しかし、この資産共有の原則が来世のための活動に適用されると、それは損失をもたらさず、多くの利益を生じさせる。なぜなら、全ての財産はそこに加わった全ての人たちの手に行き渡るという神秘がそこにあるからである。4・5人の人が、共有しようという意志を持っている。その1人はパラフィンを持ってくる。1人は芯を持ってくる。他の1人はランプの覆いを持ってくる。もう1人はつぼを、もう1人はマッチを持ってくる。そしてランプに火を点す。それによって各々は、ランプの所有者になる。そこに加わった人たちがそれぞれ、大きな壁掛け鏡を持っていれば、それぞれの鏡には、部屋と一緒に、欠けることもなく、バラバラにされてもいないランプが1つずつうつるだろう。


同じように、来世的なものを共有することには、イフラースの神秘への参加、来世の神秘との協調、一体化の神秘との合同の尽力、共に作業することから得られる全体の力の合計、全体の力が、各々の行なったこととして記録されることは、真実の道に生きる人々によって知られる事実である。そして神の慈悲の広さ、神の恵み深さの要するところでもある。


わが兄弟たちよ。インシャッラー、物質的利益があなた方を競わせることはないだろう。来世的利益という点においては、一部の宗派が惑わされているように、あなた方も惑わされるかもしれない。しかし、個人的な、わずかな利益と、上記の例で示した行動の共有において現れる善行や光とは、比較にならないほどかけ離れた存在なのである。


第2の例:職人は、彼らの技能の産物をより多く得るために、協力し合うことによって多くの富を得る。あるいは縫い針を製造する10人の人がいて、以前は別々に作業していたとする。個別に作業していると、1人が1日で作れる針は3本だった。やがて、共同作業という約束で10人は団結した。1人は鉄を運び、1人は炉を熱し、1人は穴を開け、1人は炉に差し入れ、1人は先を鋭くする。それぞれが、針を作る過程において1つのプロセスのみを担当し、またそれぞれの作業は単純であったため、時間が無駄になることもなく、それぞれの担当で経験をつみ、かなりの速度で作業を行なった。彼らは1日1人3本ではなく、1人につき300本の針を製造した。この出来事は、この世的な人々によって、職人たちに共同作業を推奨するため、広く知らしめられた。


わが兄弟たちよ。この世においても、物質においても、このような一体化、協力はこのような大きな全体的利益をもたらす。輝かしい、来世に関わることにおいて、分け合う必要もばらばらにする必要もなく、アッラーの恵みによってそれぞれの鏡に光がうつること、全員が善行を得ることがどれほど大きな利益であるか、比較できるだろう。この莫大な利益が、競い合いやイフラースの欠如によって失われるべきではないのだ。


イフラースを損なう第2の妨げ
高い位や地位への執着からもたらされる称賛への要求は、名声や評判といった覆いの下で、皆の好意をひきつけること、自分に注意をひきつけることなどによって自我をおだてる結果を生む。高慢な自我に一定の地位を与えることでもある。これは最も重い魂の病であると同様、「秘められたシルク」と判断される偽善や自己中心主義への扉を開くものであり、イフラースを損なう。


わが兄弟たちよ。クルアーンのための活動における私たちの道は、真実と、兄弟としての関係である。兄弟のような関係であることの神秘とは、その個人の自我を兄弟たちの仲で消滅させ、彼らの自我を自分の自我よりも優先させることである。だから、この種の、地位への執着による競い合いは、起こってはならないのだ。これは私たちが進むべき道とは完全に異なる。兄弟たちの名誉は、全ての個人のものであり得るのであり、この大きな精神的名誉を、個人の、利己的な、競争的な、ささいな名誉や名声のために犠牲にしてしまうことは、「光の書簡集」に学ぶ人たちからはかけ離れたものであることを私は望む。


そう、「光の書簡集」に学ぶ人々の心、知性、精神は、こういった低俗な、有害な、劣った段階に落ちることはない。しかし、高慢な自我は、皆に存在する。時に、我執の感情は血管に影響する。その心や知性、魂にかかわらず、ある程度の支配力を持つ。あなた方の心や知性、魂を責めているのではない。「光の書簡集」が与える影響力から、信頼しているのだ。しかし、我欲、欲望、感情、妄想は、時として人を惑わせる。だから、あなた方は時に厳しい警告を受ける。この厳しさは我欲や欲望、感情、妄想に向けられたものである。慎重に行動してほしい。


そう、私たちの道がシャイフ制にあったとしたら、高い地位は一つであるか、あるいは限定された数であったであろう。そしてその階級に、様々な能力ある人が候補となっただろう。そこでは妬みという自己中心主義が存在したかもしれない。しかし私たちの進むべき道は、兄弟としての結びつきにある。兄弟は他の兄弟の父となることはできないし、導き者としての態度をとることもできない。兄弟関係におけるランクは幅の広いものであり、妬みによってお互いを疲弊(ひへい)させる原因にはなり得ない。兄弟は兄弟に対し助手や支えとなり得るのみである。兄弟の活動を完全なものとするのだ。


父や師と見なすいくつかの道において、妬みからもたらされる精神的報酬に対する貪欲さ、必死な努力により、多くの害と過ちが生じてきたことへの証拠は、各宗派の人々が、これほどの成熟さと利益の中で、対立や競争によって生じさせた凄惨たる結果である。彼らの偉大な、そして神聖な力は、ビドアの風に対し耐えることができずにいるのである。


第3の妨げ
恐れと、貪欲さである。これらの妨げについては、いくつかの他の妨げと共に「フジュマート・シッテ(シャイターンの6つの攻撃)」で完全に説明されているので、そちらを参照してもらいたい。そして慈悲と慈愛の主の全ての美名をとりなしとして、私たちが完全なイフラースにいたることができるよう、嘆願する。アーミーン。


アッラーよ、イフラース章の真実のため、私たちを、自らの意志によってイフラースを持ち、またあなたがイフラースを与えられるしもべたちのうちに含めてください。


あなたの栄光を讃えます。あなたが、わたしたちに教えられたものの外には、何も知らないのです。本当にあなたは、全知にして英明であられます。(雌牛章第32節)

 

 

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