聖クルアーンと科学

 

 慈悲に触れられた地球

 

生態系の働きの価値は、最近、1年で合計33兆ドルになるとの計算が行なわれました。(Nature誌、1997年、387号、253ページ)しかし実際にお金で私たちの生命線を買うことが出来るでしょうか?それは、当然視されるべきではないような、値段など付けられないほど価値のあるものではないでしょうか?


マリーランド大エコロジー経済学会のディレクターであるロバート・コスタンザに率いられた一グループは、私たちが自然において享受しているものの費用を算出しました。水や空気、土や動物からの栄養、大気中の酸素や窒素や二酸化炭素が最適な濃度で、最適な割合で維持されることといったような地球上における奇跡的な生命の維持に関わる無数の過程の中で、次のようなものも私たちの存在には不可欠なのです。


●熱帯林の中の未知の植物の葉や花弁、もしくは皮に秘められている、それまで発見されていなかった、不治の病のための治療薬。
●昼と夜の絶え間ない継承。それにより、日光をとおして植物によって大量に生産される、動物の呼吸に必要な酸素。
●干ばつと飢えに打ちひしがれていた風景が、数日のうちに豊かな緑へと変えられ、外見上生命が与えられる、雨の効果。
●何よりも、太陽から発されているエネルギーの規模や相場は値段をつけることなどできないものです。なぜならそれは、たとえほんの一部分であろうと、地球上で獲得することがほとんど不可能であるからです。


もし私たちが立ち止まり、顕示されているものを通して、与えられているものについて熟考するなら、私たちは、自分たちの体のシステムが自由にされたサービスであると理解できるでしょう。私たちの体は、文字通り、受精の時から最後に息をする時まであらゆるポイントにおいて、私たちの自発的な介入なしに機能します。これは確かに、熟考する人々にとっては驚異であり、理解する人々にとっては奇跡なのです。

 

この明白な、神聖な、驚嘆の念を起こさせるような私たちの状態は、無視するべきものでもなければ、貨幣価値で判断して値段を付けるようなものでもないことは明らかでしょう。しかし、私たちが取り組むべきより重要な問題は、次のようなものです。すなわち、私たちの命の維持のための、これほどに貴重なサービスを考慮するなら、その貴重な信託を悪用、誤用することはどのような影響を及ぼすか、という点です。


オレゴン州立大のある海洋生物学者によって述べられているように、「この計算は私たちを目覚めさせ、細心の注意を払わせるのに十分なほど、驚異的」なのです。(New Scientist ,2082号、1997年5月17日)


加えて私たちは、このような恵み深い、驚くべきサービスがなぜ人間に与えられ、権利下に置かれているのか、問いかけてみるべきでしょう。もし私たちが自分たちを「最も進化した種」と見なすのであれば、その場合、私たちが「自然」と呼ぶ作用が、絶対的な力、知識、そして私たちの必要性を理解しそれを供給することができるだけの、私たちの理解を超越した知性を持っていることが必要となります。私たちが簡単に切り倒すことができる木が、私たちの視覚や味覚を喜ばせるだけでなく、栄養上の必要も満たしている果実を実らせることができるような知識を持っている、と主張することができるでしょうか?あるいは、人間の干渉によって簡単に傷ついてしまう自然環境というものが、生命の源であると主張することは可能でしょうか?


つまり、いわゆる「自然現象」と呼ばれるものは、人間の生命を保持するだけの知識を持ってはいないのです。それは高度に、生物学的、社会学的、心理学的に複雑なものなのです。従ってこれらの、生命を持たない作用は、非の打ち所のない正確さで、あらかじめプログラミングされているのです。それらの存在は明らかに、私たちの管理外にあるのです。
だから人の存在は、非常に明確な、特別な目的のためのものであるに違いありません。
人は生涯を通し、彼に与えられた手段によって成長し、発展します。彼はその手段に絶対的に依存しており、それはまた彼が持っている限られた機能を超越したものなのです。人はいかにその享受しているものを重んじ、それらを意図された、創造の目的に適った形で用いるべきなのでしょうか。


心や知性といった非常に高度な能力を与えられた以上、人の本質的な義務は、その意識的な恩義や、彼の周囲でその手段となっている世界を理解するという多大な責任を伴います。自らを律し鍛錬することを通し、彼は当然の敬意や謝意を、気前のよい恵みに対し示すべきでしょう。それは、そういった作用ではなく、あるお方によって彼に与えられているものなのです。人の責任は甚大なものです。しかしそこには、大きな報奨があるのです。人はもともとその恵みにふさわしい形で創造されています。あとは彼自身が自らをそれにふさわしいものとするか否かなのです。

 

 

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