人間は、現世での生涯においてその時間が増すこと、長く生きること、財産が増えること、多くの子供たちに恵まれること、生計が楽であること、そして愛するすべてのものが豊かであることを願います。人間にとってこれらすべては現世における幸福の最も重要な根幹なのです。しかし、自覚を持つムスリムはこれらの恵みが自らにとって尊いものとなり、恵みを伴うものとなることを願い、ドゥアーします。ここでの恵み(バラカ)は、「神による善がある事柄において確固たる状態であること」と定義されます。
恵みは、少ないものへ与えられた場合にはそれを豊かにします。豊かであるものに与えられた場合はそれをより有益なものとします。恵みとは、たくさんあることではありません。恵みとは、現世と来世の幸福の為に有益であることです。非常に多くのものを手にしていながら、恵みと善が何であるかを知らないばかりに手にしている豊かな恵みを生かすことができず、現世や来世のために用いることができずにいる哀れな人がどれほどいることでしょう。まず恵みには、その量の多少との前提的な結びつきはありません。時には少ないことが恵みであり、時には多いことが恵みであり、時には幸福が、時には悲しみが恵みなのです。
ここでは簡単に、顕著な点について、クルアーンの句とハディースの灯りをもとにして、恵みをもたらすものについて見ていきたいと思います。
恵みはどのように得られるか。
1―篤信:篤信とは、完全な注意深さを持ってアッラーのご命令に従い、禁じられていることを避け、物理の法則をも尊重することによりアッラーのお怒りから守られ、逃れる努力であり、アッラー以外の何者かを崇拝すること、あるいはそれを示唆するものを避け、義務を細心の注意と共に果たし、大罪を避け、小さな罪に対しても注意深くあること、疑わしいものから遠ざかること、といった意味になります。篤信はあらゆる善の発端です。
クルアーンでも、「これらの町や村の人びとが信仰して主を畏れたならば、われは天と地の祝福の扉を、かれらのためにきっと開いたであろう。だがかれらは(真理を)偽りであるとしたので、われはかれらの行ったことに対して懲罰を加えた」(高壁章7/96)とされています。またこれに関する別の句でも、「またアッラーを畏れる者には、かれは(解決の)出ロを備えられる。
かれが考えつかないところから、恵みを与えられる」(離婚章65/2−3)とされています。誠実な人である、ある方に、「ものの価格があがった」といわれた時、「篤信によってそれを下げなさい」と応えています。つまり、経済的な不均衡さがあるなら、篤信についてもう一度とりあげてみなさい、という意味になります。さらに、「篤信のある人は、決して窮乏状態にはならない」といわれています。
2―クルアーンを読むこと:クルアーンは恵みと癒しの源である書です。それが恵みと癒しをもたらすものとなることは、クルアーンに対する信仰に正比例するものです。「われがあなたに下した啓典は、祝福に満ち、その印を沈思黙考するためのものであり、また思慮ある者たちへの訓戒である」(サード章38/29)クルアーンを読むことなどのよい行い、あらゆる善や恵みを引き寄せるものとなります。
3―ドゥアー:慈悲と慈愛の預言者である私たちの主は、あらゆる行いにおいてアッラーからよいものと恵みを願われました。例えば、結婚を考える人たちのために、「アッラーがあなたに、そしてあなたの上に恵みを与えてくださいますように。祝福されたものとしてくださいますように。あなた方二人を福のうちに一緒にしてくださいますように」とおっしゃられました。つまり結婚に
際して善と恵みを考え、このようにドゥアーすることが必要なのです。同様に、預言者ムハンマドは、気高い人々に食事を振舞う一人の教友がドゥアーを求めた時、次のようにおっしゃられました。「アッラーよ、彼らに与えられた糧を豊かなものとなさってください。彼らをお赦しください。彼らに慈悲をおかけください」このお方の預言者としての生涯においては、このようなドゥアーが多く存在しています。
4―貪欲さやけちな振舞いを遠ざけること:アッラーの使徒はハキーム・ビン・ヒザームに次のように仰せられました。「ハキームよ。確かに、この財産は魅力的であり、甘美なものである。しかし一方で、そこには人の手の穢れがある。誰であれ、気前よさ、心の豊かさによってそれを手にすれば、それはその人にとって豊かなものとなる。誰であれ、それを貪欲に手にすれば、その財産は彼の為に決して祝福されたものとはならず、また豊かなものとはならない。これは、けちな我欲を持つ人が貪欲にむさぼっても決して満足しないことに似ている」同様の意味でベディウッザマン師は次のように仰せられています。「貪欲さは困窮の要因であり、慢性的な病であり、逸脱である。それは困窮や貧困をもたらす。貪欲さは貧窮をもたらす。神への信頼と満足が、慈悲の要因となる。」
5―売買行為における誠実さ:この、正しさ、誠実さの問題はとても重要です。これに関して、次のようなハディースがあります。「買い手も売り手も売り買いの場から、そしてこの事柄から離れない限り返品交換する権利があります。双方が誠実であり、すべてを明示すれば、売買は祝福され、豊かでよいものとなります。もしいくつかの点が隠され、されには嘘がつかれたりしていれば、売買の恵みはなくなってしまう」
6―仕事を期日までに行うこと:イスラームの望む事柄の一つが、時間に正確で早めに仕事を済ませることです。日が昇る前に朝の礼拝のために起き、崇拝行為を行い、日々の仕事を始めることです。借金を遅らせることなく期日内に支払い、約束を守り、時間通りに果たさなければならないのです。「アッラーよ!物事を早めに済ませることを、わがウンマにとって祝福されたこととしてください」というドゥアーがこれを示しています。
ドゥアーを伝承しているサフル・アル・ガミーディは、アッラーの使徒が軍を早朝に出発させられていたことを記録した後、自らが商人であること、品物を買い手に朝一番に送っていたこと、それによって裕福になったことを記しています。早起きすることの必要性、朝の礼拝の後に寝ることが好ましくないという点については他の伝承もあります。「恵みを求めることは早めに始めなさい。なぜなら早く始めることは恵みであり、成功であるからだ」「朝の時間の眠りは、恵みへの妨げとなる」また他には、朝の礼拝の後に眠っていたファーティマを、預言者ムハンマドが足で突付いて起こされ、「娘よ、起きなさい。神の恵みの分配の証人となりまさい。のんきであってはならない。なぜならアッラーは、黎明の時間と日の出の時間の間に、恵みを分け与えられる」とおっしゃられました。
私たちの師たちは、朝の礼拝を時間通りに行わず遅らせてしまい、従ってあらゆる仕事を遅い時間に残す人たちがその日食べるものを見出すことすら非常に驚くべきことであることを述べ、「朝の礼拝を太陽が昇った後に行なう人が、その日何らかの恵みを見出せたのなら、それは驚くべきことである」と語っています。つまり、その日おなかを満たすことができたことに感謝すべきであり、何も見つけることができなかったとしてもそれが普通であるとしているのです。
7―預言者のスンナに従うこと:なぜならあらゆる仕事において、スンナに従うことはよいことと恵みをもたらすからです。この項目では多くのハディースがあります。「恵みはタ料理の中央に下されます。皿の端の方から食べなさい。真ん中なら食べないでください」アッラーの使徒は指をなめること、無駄にならないよう皿をきれいにすることを命じられました。「あなたがたの食べているものが落ちたなら、それを拾いなさい。それをシャイターンに残してやってはいけない。なぜなら恵みが食べ物のどの部分にあるか、あなた方は知ることができないのだ」
8―タワックル:ギュレン師の解釈によるとタワックルとは、要因、媒介となる範疇においては不足なくそれらの要因を尊重し、その先では限りのない力の持ち主であられるお方アッラーが私たちの上に及ぼされるものを待つことです。要因を試みる一方で、それらに真の影響力があると見なしてはいけません。「アッラーを信頼する者には、かれは万全であられる」(離婚章65/3)よく知られたハディースでアッラーの使徒はとても素晴らしく表現されておられます。「もしあなた方がアッラーへと、そのお方にふさわしい形で向かうことができていたら、朝その巣から空腹のまま離れ、夜には満腹して戻る鳥たちに糧を与えられるように、あなた方にも恵みを与えられていたことだろう」
9―相談すること、イスティハーラを行うこと:重要な仕事においては、それをよく知る人に相談すること、さらに必要であればアッラーにイスティハーラ(正しい道を選択するためや、決意をするための導きを求める祈り)を行なうことはとても重要です。そしてアッラーがしもべのために選ばれたことを受け入れ、満足するべきなのです。疑いもなく、アッラーが選ばれたことは現世と来世の幸福のため、私たちの自我が行なう選択よりもずっと有益なのです。
アッラーの使徒は私たちにイスティハーラを教えられました。ナーフィラ(義務ではないもの)として2ラカートの礼拝を行ない、続いて次のようにドゥアーすることを命じられています。「アッラーよ!あなたの知識により、あなたからよいものを求めます。あなたの力により、あなたから力を求めます。あなたの偉大なる恩恵を求めます。なぜならあなたの力は十分なものであり、私の力は不十分であるからです。あなたはご存知であられ、私は知りません。あなたは見えない事柄を正しくご存知です。
わがアッラーよ、この仕事がもし、あなたの知識において、私の教え、現世、生涯、結果という点でよいものであれば、それを私に授け、容易にしてください。そしてそこで私に恵みをお与えください。もしこの仕事があなたの知識において私の教え、現世、生涯、結果という点で私にとって災いであるのなら、この仕事を私から遠ざけ、私をもこの仕事から遠ざけてください。よいものが何であれそれを私に授けてください。それによって私を喜ばせてください」
10―足るを知ること、倹約、満足:「誰であれ何かを必要とし、それを人々から求めれば、その必要性はあまり満たされることがない。それをアッラーに訴え求めれば、アッラーは彼に、即座に、あるいは後で、豊かさを与えられる」「財産を求めるのであれば満足することで十分である。そう、満足する者は倹約を行い、倹約する者は恵みを見出す」「倹約は精神的な神への感謝であり、かつ、恵みにおける神の慈悲への敬意であり、かつ、確かな形で恵みへの要因となる」
11―援助、サダカ:経済援助やサダカは、恵みがより豊かなものとなる最大の要因の一つです。言ってやるがいい。『本当にわたしの主は、そのしもべの中から御心に適う者に、御恵みを豊かに与えまた或る者には乏しく授けられる。かれはあなたがたが(主の道のために)施すものはすべて返される。かれは最も優れた御恵を与える方であられる。」(サバア章34/39)聖ハディースでは次のように言われています。
「人間よ、人に糧を与えなさい。私もあなたに糧を与えよう」ベディウッザマン師の確証はこの項目に有意義な援助となっています。「しかしザカートは各人にとって恵みの要因であり、災いを退けるものである。ザカートを支払わない人は、ザカートと同じ程度のものをその手から失う。不必要な場所に支払うことになるか、何か災難が襲ってきてそれを持ち去るのだ」
12―禁じられたものを避ける:ハラーム(禁じられたもの)のあらゆるあり方、全ての状態を避けることが必要です。なぜならハラームには恵みやよいもの、そして継続性はないからです。この事柄に関するクルアーンの句やハディースが多くあります。「アッラーは、利息(への恩恵)を消滅し、施し〔サダカ〕には(恩恵を)増加して下される」(雌牛章2/276)
13―恵みに対し感謝すること:感謝とは、あらゆるよいことに対して示される満足と恩を受けたという態度、そして人に与えられた感情、考え、体の器官などを、その創造の意図に応じて使うことを意味します。心や言葉によってそれを実践することができるように、あらゆる器官においてもそれを行なうことはできます。感謝は重要な行為であり、尊い資本であるにもかかわらず「だがわれのしもベの中で感謝する者は僅かである」(サバア章34/13)とされているように、真の意味でそれを実践する人のあまりいない行いです。
真の感謝は、恵みが完全に認識されることによって可能となります。「その時主は(ムーサーの口を通じて)宣告された。『もしあなたがたが感謝するなら、われは必ずあなたがたに(対する恩恵を)増すであろう。だがもし恩恵を忘れるならば、わが懲罰は本当に厳しいものである』」(イブラーヒーム章14/7)
14―日に五回の義務を続けること:礼拝は恵みの最大の源です。「またあなたの家族に礼拝を命じ、そして(あなたも)、それを耐えなさい。われはあなたに御恵みを求めない。あなたがたに恵みを与えるのはわれである。善果は主を畏れる者の上にある」(ターハー章20/132)
15―許しを請うことを忘れないこと:クルアーンは、預言者ヌーフの嘆きを語る際、この問題を明らかにしています。「わたしは言いました。『あなたがたの主の御赦しを願え。本当にかれは、度々御赦しなされる。かれは、あなたがたの上に豊かに雨を降らせられ、あなたがたの財産や子女を増やし、またあなたがたのために、様々な園や(水の流れる)河川を設けられる』」(ヌーフ章71/10-12)ウマルさま(アッラーが彼にお慶びくださいますように)が飢饉のため雨乞いのドゥアーを行いに出た際、許しを乞うことのみで十分としたため、周囲から「雨乞いのドゥアーをなされませんでしたが」という問いかけがなされました。彼は「私は、天の雨をもたらす扉を叩いたのです」と応え、この句を読まれたのでした。
ハサン・バスリの議場で、ある人が干ばつを訴えました。彼も「許しを乞いなさい」と応えました。他の人が経済的な困難さを、また別の人が子供ができないことを、また一人はその土地が不毛であることを苦しんで訴えた際にも、彼らに同じことをいいました。周囲の人がそれを奇妙にとらえた時、彼もまた、クルアーンのこの句を読んだのでした。
16―両親や目上の人への敬意:ベディウッザマン師は、両親や目上の人への敬意が恵みへの要因となることを『第21の手紙』で長いページを割き、詳しく述べています。「生計の悩みに取りつかれた者よ。知りなさい、あなたの家の恵みの柱、慈悲の媒介、そして災いを遠ざけるものは、あなたの家であなたが冷たくあしらっている老人、あるいは目も見えない親戚である。決して「私には余裕がない。面倒を見ることができない」といってはならない。
なぜなら彼らのおかげでもたらされる恵みがなかったとすれば、必ずあなたの生計の苦しみはよりひどいものとなるだろうからだ。さらには、年老いた親戚だけではなく、恐らくは人間への友とされ、その糧も人間の糧と共に贈られている猫のように、一部の被造物の糧すら、恵みという形でもたらされる。もしあなたが来世を愛するのなら、あなたに尊い秘宝を;彼らに奉仕し、その満足を得なさい。もしこの世界を愛するのなら、やはり彼らを満足させなさい。彼らのおかげであなたの生活は容易になり、糧は豊かになるだろう」
短い文章の中に詰め込もうと試みたこのテーマは、本来もっと詳しく語られるべきものです。なぜなら「恵みをもたらすもの」というこのテーマには、より詳細な側面もあるからです。例えばそれが一つの試練であるという次元は、言及されるべき一つの側面でしょう。ただクルアーンの句とハディースの灯りによって、簡単にふれてみたに過ぎないのです。
ただ、イスラーム教徒の最初の三代と私たちが呼ぶ偉大な人々の生き方において、私たちに託されたいくつかの恵み多い言葉のうちにこれらを把握するべく努めることも必要だったでしょう。神が私たちの生に恵みを与えてくださいますように。私たちの仕事をよいものとしてくださいますように。現世と来世において益を得ることができるよう、私たちを助けてくださいますように。

