世俗化した人間は、その存在を永遠なる世界ではなく、一過性のこのはかない世界での生によって意義づけており、そのために深刻な欺瞞を受けています。今日人類は近代化という風により、その本髄や魂と相容れなくなるという状態に追いやられています。近代化を追い求めるプロセスでは、物質的・精神的なあらゆる事柄をばらばらにした上でそれに意義づけを行おうとする破壊的なポストモダニズムの思想により、人類はますます煙にまかれてしまっています。人々が「私は何者なのだろう。
どこから来たのだろう。どこに行くのだろう」という問いを自らに、あるいは互いに問いかけたりしないようにと、あたかもすべての手がうたれているのです。マスコミの媒介、もしくはハリウッドによって導かれだす映像において常に見られる人生を拙速ーに生きようとする思想は、あたかも人々に拙速に生きることを条件づけているかのようです。存在することの根本的な目的として、この世界を楽しむことが、熱狂的な消費と共に押しつけられています。
ちょうど人は、その存在と唯一性が万物の微粒子においてすら無数の刻印によって見られるお方、その存在が不可欠であるお方が「まるで存在しないかのように」生きることを余儀なくされているかのようです。そしてこの思いもつかないようなごまかしの主役を担うのは、「真実の逆」以外の何ものでもない嘘なのです。そう、今日嘘は、(それを禁じる宗教や教訓にもかかわらず)おそらく他のどの時代にも類を見なかったほどに広まっているのです。
ティム・ライメントが2005年11月29日のサンデータイムズ紙に書いた「真実は手で触れることができないほどに熾烈なものか」という論文や、研究者であるブライアン・マーティンがソーシャル・アナキズム誌の第35号に発表した「よりよい世界のために嘘をつくこと」という題の学術論文において、嘘に対し示される一般的な態度や考え方が明解に示されています。
ライメントの表現によるなら、西洋において嘘や嘘をつくことは、狂気の境で生涯を送りついには発狂した虚無主義(ニヒリスト)の哲学者ニーチェの「生きるために我々は嘘を必要とする」という虚言との並行性を示すものです。西洋において「嘘」は、少なくとも「真実」と同じくらい人生の一部となっているのです。古来から嘘は、人が自分の利益を守り、何かを手にするためにつくものであると信じられてきました。
しかし現在においては決して精神的な疾患も持たず、社会的な成功も収めていると認められているような人ですら、正当な理由もないのにもかかわらず嘘をつくような状態にあります。社会においてほとんど全ての人があらゆる機会に嘘をつこうとする傾向にあることは、人々が「本当のことを言ったってどうせ信じてもらえない」という考えを生み出し、真実を語ることがあたかも不必要で価値のないものであるかのようにされているのです。
シーン・スペンス博士は、ブリティッシュ・リサーチャー誌に人間が嘘をつくと決めた時にどのような変化が脳に起こるかを明らかにする論文を発表しています。この研究は、嘘をつこうとする行為において、前頭葉前部皮質のいつも同じ部位に強い反応が見られることを明らかにしています。怒りや攻撃性を含め、へんとう体において無意識に生じる衝動を意識的にコントロールする役割を持つ前頭葉前部皮質の部位と、嘘をつく際に重点的に反応が起こる部位とが同じであることは注意を引くものです。
ここからもたらされる結果によるなら、嘘をつく状況が生じた時には、真実を語るにも嘘をつくにも適したつくりを持つ人間の本質に隠された真実を語ろうという傾向が、脳のこの部位の反応が無意識に強まることにより、抑制されようとしているのです。スペンスの確証によると、嘘をつくという状況で脳に見られる抑制や抵抗の動きは、他の衝動をコントロールしようとしている時に示される活動よりもかなり強いものです。この研究が明らかにしている重要な真実があります。それは、本来嘘をつくことは人間の本質に反することであり、本質を失っていない人にとってそれは真実を語ることよりもはるかに難しいものであるということです。
カント、アウグスティン、アクィナスがその礎を築いたキリスト教の道徳によるなら、この教えを信じる人々に対し特別な状況を除いて嘘は禁じられているのにも関わらず、今日それはいまだに必要なものとされているのです。マーティンの考えを分析しても、そこに見えるものはそれほど変わりません。マーティンは、真実が理論では示されているものの西洋ではあらゆる場に嘘が存在すること、その理由として子供たちにどのように嘘をつくべきかを家族自らが教えていることを主張しています。
ポストモダニズムは、あらゆる手段で快楽を味わうことをよしとし、あらゆる思想に敬意を払うというその概念によって嘘をつくことを容易なものとし、さらには推奨してきました。マーティンによるならこの推奨は、嘆かれるべき嘘の概念の一つを形成しています。論文において参照として示されているフォードによるなら社会は、人々が壊されていない真実、事実を耐え難いと感じるような状態になっているのです。自分が聞きたいと望んでいることが話された時には、それを嘘とは見なさない傾向が人々にはあります。
人々の大部分は、この世界で、そして社会生活において自らの役割を認めたがらない傾向を持っており、他者が自分たちの状態について語る嘘を真実だと見なすことを望むのです。そして非常に残念なことに、このことにおいては自分たちすらも騙すことに躊躇しないのです。人々はこの世界における立場を位置づけようとする際、虚無主義や無神論の思想の影響も受けて膨張したエゴにより、万物を導かれるお方アッラーとの間で創造主と非創造主という結びつきを築けずにいます。そのために、無に過ぎない自らの存在のあり方を認めることが容易にできず、自分に嘘をつくといったようなつまらない行為に陥ってしまうのです。
西洋の心理学者の説明も、近代西洋社会が嘘に対して陥っている無力な状態を吐露するものです。子供における嘘の発展を研究したマリア・ワセクは、嘘のために必要となる「熟練さ」がない限り人は存在できないと語り、また彼女と同じ誤りを犯してしまっているニーベルグは嘘を「世界に均衡をもたらすために必要とされ、互いに異なる個人の間の問題を解消し、苦しみに耐える助けとなり、個人主義を把握する支えとなり、人をその人生に結びつける一つのメカニズムである」と見なしているのです。
罪のない嘘という欺瞞
D.
クフンが2004年4月22日付けの「一つの嘘は別の嘘へと導く」という名の論文で書いている事柄の概要を見てみるなら、西洋世界においては、誰にも害を与えないと想定され、大目に見られ、社会的に承認されている嘘は、罪のなさ、穢れのなさを連想させる「白」という特性で讃えられ、罪のない嘘
(white
lie)と名づけられています。この状況は西洋社会が嘘に関して危険な状態に陥っていることを改めて示すものです。人の性質が子供の頃に形づけられるという真実から鑑みるなら、「白い嘘(罪のない嘘)」と表現される嘘が次第に当たり前のものとなっていき、いつの日か炭のように黒い嘘によって地上が覆われるようになることは想像に難くないことなのです。
もしかしたらそれらの「白い嘘」にはまったく害のないことが主張されるかもしれません。しかし「白い嘘」は「真実を部分的に隠し、もしくはゆがめることが、一つの手段あるいは手法である」という考えをほのめかし、嘘のために扉を開くものであるという観点から重要なものです。
著名なイギリスの作家ジョナサン・スウィフトは、自国において蔓延してうryと見なしていた欺瞞や嘘を批判するため、ガリバーが訪問した馬の国の辞書には嘘を意味する単語がない、とイメージしています。なぜなら嘘は硝酸のようなものであり、そのしずくですら人生や人間を溶かしてしまうのに十分なのです。だから嘘には白も黒もありません。それは放射能のようであり、人、時間、空間を問わずに害を及ぼします。ただ現在を荒廃させるだけではなく、将来をも抵当にいれているのです。
全世界における正しさの模範 アル・アミン
正しさと聞いて最初に思い浮かぶ名は、私達の心を和らげ、人間の誉れであられるアル・アミン(自ら確信しておりまた他者がその人について確かな信頼を抱いている人)、預言者ムハンマドです。そのお方の嘘に対する譲歩しない態度は、史学においても記録されているように社会学における基準においても認められている真実です。崇高なる私達の預言者は個人的・社会的観点から、決して嘘をつかれずにいたという点で人類にとって不変の、不滅の、そして比類なき模範であられるのです。
イスラームの二つの泉である聖典とスンナによるなら、預言者ムハンマドのこの独自のあり方は、あらゆる文化に属する人々が容易に理解できるような明解な形で示されているものです。クルアーンは王たちの王であるお方の少しもたがわないこの正しさについて「本当にあなたは、崇高な徳性を備えている。」(筆章第4章)と表現し、評価しています。
一方、そのお方を助ける人々については「本当にアッラーの使徒は、アッラーと終末の日を熱望する者、アッラーを多く唱念する者にとって、立派な模範であった。」(部族連合章21節)という力強い指摘、そして「使徒があなたがたに与える物はこれを受け、あなたがたに禁じる物は、避けなさい。アッラーを畏れなさい。」(集合章第7節)という命令によって、結びつきと模範を示しているのです。
真正なハディースでは、クルアーンの奇跡の言葉と同調する形で、預言者ムハンマドの正しい言葉を礎石とした比類なき徳を示す無数の出来事を明らかにしています。根本的な原則−命令されたとおりに正しくあること−がまったく変わっていないため、この事柄を明らかにするにあたってはいくつかの例で十分なのです。
1)
私たちは「アッラーの使徒よ、信者は臆病であることがありえるでしょうか」と聞きました。そのお方は「ありえる」と答えられました。「では、けちではありえるでしょうか」と私たちはたずねました。また、「ありえる」と答えられました。私たちはまた「では、嘘つきではありえるでしょうか」と尋ねました。そこでは、「ありえない」と答えられました。
2)
ウマルはジャービエで私たちに呼びかけて言いました。「アッラーの使徒は、ちょうど私があなた方の間でこのように立っているように私たちの中で立ち上がられ、呼びかけられ、こう言われました『私の友たち、そして彼らに従う者達、そしてその彼らに従う者たちに対し、私への敬意として彼らによく振舞いなさい。彼ら以降の世代では嘘が広まり、証言が求められてもいないのに証言を行ったり、誓いが求められてもいないのに誓いが行われたりするであろう。』」
3)
アッラーの使徒は「あなた方に大罪のうち最も大きなものについて知らせようか」と言われ、それを三度繰り返されました。私たちが「はい!」と答えると、「アッラーに何ものかを配すること、両親の権利を尊重しないこと、殺人を犯すことである」と仰せられました。その時には何かに寄りかかられた状態でしたが地面に座られ、「知っておきなさい。嘘の言葉、嘘の証言もそうである」と言われ、それを何度も繰り返されました。私たちは「もうおやめになっていただければ」と願ったほどでした。
大変な精神的嵐に見舞われている今日の世界において、その害悪、そして人の本質へのそぐわなさがあらゆる人々によって認められているはずの嘘がなぜこれほど広まっているのか、という点では、個人的・集団的な影響について考える必要があります。神の、従って真実の尊さはあらゆるものを凌駕するものであるということを、各種の学問という媒介を用いて明らかにしていくべきなのです。現代の人々を真の文明へと到達させ、嘘から守るための道は、話す時、書く時、そして生きる時に真実を示すことにあるのです。

