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運命(カザー・カダル)を信じること
信仰の条件のもう一つは運命(カザー・カダル)を信じることである。
カダル: アッラーがいつでも、起こるであろうことを、それがいつ、どこでどのように起こるのかに至るまでご存知であられる事を指す。
カザー: アッラーが定められた事は、その時が来ると定められた形で実現することを指す。
言い換えると、カダルはアッラーの法や規範であり、カザーとは物事がその法に従って起こることを言うのである。全てを定められ、創造されるのはアッラーだ。私たちはそのように信じる。なぜならアッラー以外に創造者はいないからである。アッラーは起こったこと、これから起こること全てをご存知であられる。時が来ると全てがアッラーが定められた通りに実現する。それを外れるものは一切ない。
クルアーンではこの件に関して次のように記されている。
「地上において起こる災危も、またあなたがたの身の上に下るものも、一つとしてわれがそれを授ける前に、書冊の中に記されていないものはない。それはアッラーにおいては、容易な業である。」57章22節
「言ってやるがいい。『アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない。かれは、わたしたちの守護者であられる。信者たちはアッラーを信頼しなけれぱならない。」」9章5節
カザーやカダルといって思い浮かぶものはアッラーの英知やご意志、存在させるお方という風格であるべきである。つまりアッラーは、起こるであろうことを前からご存知であられ、その時が来ればその存在を望まれ、そしてそれを創造されるのだ。
全てはアッラーが望まれることによって、そしてその創造によって起こる。疑いの余地のないことだ。ただし、次のような疑問が思い浮かぶこともあるかもしれない。「全てアッラーが定められたように実現するのであれば、私たちがアッラーの命令に従わなかったり罪を犯したりしても私たちには責任はないはずでは〒私たちはアッラーが定められたからこそそれを行ったり、行わなかったりするのでは。」といったような問いである。
アッラーは人間を創造され、人々に知性と意志、そして力を与えられた。人はその知性と意志によって善を選び、悪から身を守らなければならない。そうでなければ、人が知性と意志を持った存在であるということの意味がなくなってしまう。だから人は白らの知性と意志を使わなければならないのだ。人が、役に立つものを選び有害なものを避ける能力を「イラーダイ・ジュズイー」と呼ぶ・この意志と望みをどちらに使うか、どち
らを選択するか、どちらであれアッラーはそれをわらわれの望みにふさわしい形で創造されるのである。
私たちのこの希望がアッラーのご命令にふさわしいものであればそこで善行を行ったことになり、ご命令に反するものであればその責任を負うことになる。例えば、(アッラーがお守りくださいますように)人を殺してしまったとしよう。アッラーが禁じられていることをしてしまったわけだ。ここで「どうすればよかったというのか、アッラーはこのように定められていたのだ。アッラーがそのように定められていなければ私はこんなことはしなかったのだ。」と、自らを弁護することはできない。なぜなら私たちは、自分達が行ったことを、行う前であれ行った後であれ運命のせいにすることはできない。私たちは意志をその方向で用いて、アッラーの定めがその形で現れるような原因を創ったのであり、その責任を負うのだ。
次の例は更に分かりやすくこのことを説明している。
ある天文学者が、白らの計算を元に、日食が起こることを証明し、報告したとしよう。その時がくると日食は起こる。この場合、日食が起こったのは学者が報告したからだろうか。それとも日食が起こる・からこそ、学者はその報告を行えたのだろうか。
言い換えるなら、学者の、日食が起こるという報告が、日食の起こる原因となったのだろうかアあるいは日食が起こるであろうという事実が、学者がこの報告をする原因となったのだろうか?
考えるまでもなく、日食が起こるという事実が、学者の報告の原因となったのだ。学者が報告した為に日食が起こったのではない。私たちが行うこと、あるいは私たちの身に起こることをアッラーが前もって知っておられるということは、このようなことを意味するのだ。私たちが白らの意志で、白らの選択で行う物事を、アッラーはその無限の英知で前もって知っておられ、それを定められるのである。
アッラーがご存知であられ、そう定められたからそのことを行わなければならなくなった訳ではない。そもそも、自分たちについてどのような事を定められたか私たちは知らずにいる。何かを行う決心、あるいは何かを行わない決心をする際、私たちはなんの抑圧も受けず、自らの白由な意志で決定し、その決心に従って行動する。自らの意志で下した決定とそれに従った部分で、私たちは責任を負うのである。
運命に関するクルアーンの章句はこのようにとらえるべきだ。そうでなければ、白らの意志で殺人を犯し、盗みを働き、姦通を行った者、あるいはそれらのような禁じられた事を行った者は、その運命であったこういった振る舞いについて責任を問われないことになってしまい、それは過ちである。運命をこのようにとらえることは過ちなのだ。
オマルがカリフ時代、ダマスカスに向かって出発し、セルグという地に到着した際、軍の司令官が彼を迎え、ダマスカスでペストが発生していることを報告した。オマルはペストを避けるため、その病の発生した地に入らないことを決た。そして戻ることを告げた。
それに対して司令官の一人アブー・ウバイダが彼に、「カリフよ、こうやってペストの発生しているところに行くことを避けることによってアッラーの定められた運命から逃げようとしているのか。(アッラーがその病気で死ぬことを定められていたとしたら死ぬことになるであろうし、定められていなかったとしたらあなたは大丈夫であろう)」と言った。オマルは、
「そんなことを言うのはあなたらしくない。アブー・ウバイダよ。」
と言い、それから付け加えて、
「アッラーの定められた運命から、またアッラーの定められた運命へと逃げるのだ。あなたのラクダたちが谷に降りていき、その片側は肥沃な土地でもう片側が砂漠であれば、あなたは肥沃な土地にラクダを放す。その場合アッラーの定められた運命に従ってラクダを放牧することになっていたのではなかろうか?」と言い、運命をどのように理解すべきかを例を持ってわかりやすく説明された。
そう、私たちは運命についてこのように理解すべきなのだ。なぜなら我々は知性と意志を持っているからである。知性と意志を用いて行った事に、責任を負う。これらが前もってアッラーによって知られ、定められていることは、私たちの意志には影響を与えない6なぜなら運命とはアッラーが「彼はこれ、これをするべきだ。しなければならない。」と述べたことではなく、「彼はこれを行うだろう。」と述べたことであるからだ。そうでなければ、自らの意志で行った、あるいは行わずにいられなくなった善行によって報奨を与えられること、悪行によって懲罰を与えられることの意味が成立しないのである。
 
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