イスラーム概説

 

 アッラーを信じること

 
アッラーへの信仰

 

人の、第一の義務はアッラーを知り、アッラーを信じることだ。

アッラーとは、存在が必須であり、凡ての賞賛に値する、創造主の美名である。


アッラーは存在し、その存在は必須なのだ。その存在の為には、他のいかなる存在の支えも必要としない。だからこの言葉は、真に崇拝の対象であり、唯一の創造主であるお方特有の美名だ。そのお方以外のいかなる存在にも、その名前は与えられないのである。

アッラーを信じることは、その存在とその偉大なる特質を知り、それらを認めることによって実現する。
アッラーのあられ方を、この世界での生において私たちが感覚器官で認識することはできない。そのあり方は何ものとも異なるものであるからだ。だから、アッラーを何かに例えて認識することはできない。クルアーン25章3節でも、「目はそのお方を認識できない。」と記されている。その存在は、人の目が認識できるものではないのだ。

だから私たちは、アッラーの存在をその特質によって知り、理解するのである。

アッラーの特質


アッラーの特質は、ザート(そのお方に帰されるもの)とスブート(確実であるもの、必須条件であるもの)二種に分けられる。このうちザートが六つ、スブートが八つで、計14になる。

ザートの特質:
これらの特質はアッラーに関する必須事項であり、その逆を考えることはできない。つまり、これらの逆によってアッラーを特質づけることはできないのである。例えば、アッラーは存在する。この逆は、存在せず、ということになる。アッラーは、存在しないと規定することはできない。この種の特質は以下の通りである。

ヴジュード: 確実に「おられる」ということである。アッラーは存在する。その存在の理由はアッラーご白身である。だからアッラーのことを「ワージブル・ヴジュード」と呼ぶ。アッラーは存在において、そしてその継続において、いかなる支えも必要とされない。

クデム: アッラーは、始まりのない存在であられる。つまり、その存在に、始まりがないのだ。アッラーはこの時期までは存在されなかったがその時期以降は存在される、とはいえないのである。

もし、アッラーが始まりのないお方でなかったとしたら、つまり、後から存在されるようになったというのであれば、その創造主が必要となる。なぜなら後から存在するようになったものには、それを存在させたものが必要であるからだ。しかし先にも述べたようにアッラーはその存在が必須であり、誰の助けをも必要とされないのである。

ベカー: アッラーの存在には終わりはない。例えば、私たちのような、存在に始まりがあるものは、一定時間の後にはその存在は終わりを告げる。アッラーは死ぬことはなく、常に存在し続けられる。クルアーンにおいて、「かれの御顔の外凡てのものは消滅する。採決はかれに属し、あなたがたは(凡て)かれの御許に帰されるのである。」28章、88節

と述べられている。そしてアッラーが永遠に存在されること、存在に終わりがないことが示されているのだ。
ムハーラファトゥン・リル・ハヴァーディス1後から創造されたものには似ないという意味である。世界を、そして世界の存在する全てを創造されたのはアッラーだ。被創造物はどれであれ、アッラーに似てはいない。アッラーは比べられるものの何もない、崇高なお方なのだ。クルアーンでも

「かれに比べられるものは何もない。」42章、11節とされている。

クヤーム ビネフィシヒー: アッラーの存在がそのお方ご白身によるもので、他の何かによるものではないという意味である。
 

ワフダーニッヤ: アッラーの唯一である。この世を、そして世に存在する全てを創造され、生かされておられるアッラーは、あらゆる意味で唯一の存在なあだという意味である。その存在が必須であることから、存在のあり方においても唯一だ。

アッラーはその特質においても唯一であられる。なぜならその特質において、比較できるようなものは何もないからだ。例えば、アッラーには英知あるお方という特質がある。この特質は人間にもあるものだ。しかしアッラーにおいてこの特質は終わりなくまた始まりもない永遠のもので、全てを網羅している。人の知識は後からのものであり、常に変わり得るし、消失することもありうる、非常に限られたものである。

アッラーは、その業において、創造において唯一であられる。この世界全てを創造されたのはこのお方なのだ。アッラー以外に、崇めるにふさわしい存在はない。崇拝はアッラーに対してのみ行われる。助けは、ただこのお方から待たれるのである。そう、アッラーはあらゆる意味で唯一の存在であられる。クルアーンでも、
「あなた方の神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である・」2章163節 と記されている。

クルアーンの、最も短い章の一つである純正章では、次のように記されている。

「言え。『かれはアッラー、唯一なるお方であられる。アッラーは自存され、お産みなさらないし、お産まれになられたのでなはい。かれに比べ得る、何ものもない。』」

この世界にある均整と秩序、白然界の法則がお互いに適合しあっていることが、アッラーの唯一畦、比べられるものが何もないことの明らかな証拠である。

もしアッラー以外にも神がいたとしたら、この秩序はなかったであろう。クルアーンでも、
「もし、その(天地の間に)アッラー以外の神々があったとしたならば、きっと混乱したであろう。それで玉座の主、かれらが唱えるものの上に(高くいます)アッラーを唱えなさい。」21章22節と語られ、アッラーの唯」1生の力強い論拠を示している。

もし、複数の神がいるとするなら、それらがお互いにわかりあえるか、わかりあえず別行動をとるかのどちらかだ。お互いに理解しあった場合、共同で世界を統治した場合、片方がもう片方を頼りにしていることになる。しかし、支えを必要とするような存在であれば神ではない。もし、支えを必要としていないのであれば、もう片方の神はそもそも必要ないことになる。

だから、アッラーは唯一なのだ。逆に、複数の神がお互いに理解しあえなければ、片方が行ったことに別の神が反対するようなことになり、この世界には秩序はなくなる。天地は混乱し、破壊されたことであろう。
しかしこの世界には完全な秩序がある。全てがあるべきところに存在し、不足するものもない。だから、アッラーは唯一でほかあられるのだ。外に神は存在しないのである。

スブートの特質

ハヤート: アッラーは、真の、そして永遠の命をもたれている。生あるもの全てに、このお方が命を与えられている。クルアーンでは次のように述べられている。

「アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存されるお方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることはできない。」2章255節

イリム: アッラーがご存如である、ということを意味する。アッラーは、天と地に存在する全てのことをご存知だ。人が心に秘めていることでさえ、知っている。アッラーがご存知でないものは何もない。クルアーンでは、
「本当に地においても天にあっても、アッラーに隠す何ものもない。」3章5節と記されている。

イラーダ: アッラーが望まれることを意味する。アッラーは望まれ、また望まれたことを実践される。この点においていかなる力であれ並ぶことはないのと同様に、いかなる援護も必要としない。

クルアーンでは次のように記されている。「何かを望まれると、かれが『有れ。』と御命じになれぱ、即ち有
る。」36章82節

クドゥラ: 力が十分であることを意味する。アッラーのお力は全てに対して十分だ。力が足りないこと、できないことなどは何もないのだ。クルアーンでもこのように言われている。

「アッラーは全てのことに全能であられる。」3章29節

サミイ: 聞くこと、を意味する。アッラーは、遠近を問わずあらゆるものをお聞きになる。更には、私たちの心の中の声まで聞かれるのだ。何かを聞く為に、私たちのようにその為の器官を必要とされることもない。クルアーンでは次のように記されている。

「本当にアッラーは、全聴にして全知であられる。」2章181節

バサル: 見る、という意味である。アッラーは全てをご覧になる。遠近や、覆われているかいないか、明るいか暗いかなどは問題ではない。私たちがいつ、どこで何をしたのかということに至まで、全てをご覧になる。見る為に、私たちのように目を必要とされることもない。

カラーム: 語る、という意味である。アッラーは語られる。しかし私たちのように文字や声を必要とはしない。クルアーンやその他の啓典はアッラーのお言葉である。タクヴィン1創造する、という意味である。世界と、世界にある全てを創造され、生かされ、育まれるのはアッラーである。このお方以外に創造主はいない。
これらがアッラーの特質であり、こういった特質によってアッラーは理解され、認識される。アッラーを信じるということは、アッラーがこれらの特質をもたれていることを信じるということである。

まとめると、次のようになる。アッラーは存在され、存在は必須だ。存在には始まりも終わりもない。唯一であられ、何ものであれ比較になるものはない。何かの援護を受けられることはない。永遠の生の持ち主であられる。望まれ、それを実行される。全てを知り、全てを聞き、また全てを見る。全てに十分な力をお持ちである。文字や声を必要とすることなく語られる。世界と、世界にある全ての創造主であられる。

アッラーは、始まりも終わりもないお方だ。その存在には始まりがないのである。

「アッラーの御手がかれらの手の上にあり…」49章10節
「だが(永遠に)変わらないものは、尊厳と栄誉に満ちたあなたの主の慈顔である。」55章27節

これらの章句での、アッラーの御手、アッラーの慈顔という表現は、文字通りの意味を示しているのではない。なぜならアッラーは被造物のいずれにも似ておられないからだ。このような形で使われる手や顔とは、力、その存在、といった意味を持つのである。

 

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