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人類史における宗教
宗教は文化史における最も深い概念であり、人間が出会った最古の体系のひとつです。宗教を説き明かす為に諸文化において取り入れられている言葉を調べていくと、これらは宗教が、一方で人の内面世界に至るものであり、また一方で個人、社会の振舞いに反映される根本的、普遍的な事象でもあることを示していることがわかります。
自分を超越する気高い力に結びついていたいというニーズは、人の本質に存在するものであり、歴史上のどの時期においても、宗教へのニーズは存在し続けたのです。
イスラームの諸文献に見る、広義・狭義のイスラームの概念
クルアーンと預言者ムハンマドのハディースによると、イスラームには狭い意味と広い意味があります。狭義においてイスラームとは、預言者ムハンマドの媒介によって伝えられた最後の宗教、という意味です。広義においては、アッラーへの帰依を説く、アーデムからムハンマドまでの全ての預言者の媒介によって人々に伝えられた教えの共通する名称ということになります。従って、イスラームにおける宗教の概念と事象への見解は非常に幅広いものとなります。
イスラームの認識における宗教の定義
イスラームの知識人たちは、宗教を様々な形で定義しています。この定義に含まれ、宗教の根源、目的、人々との結びつきを明らかにしている三つの要素について簡単に説明してみましょう。
A 「宗教はアッラーによるものである。」すなわち、アッラーによって創造されたものであり、宗教の根源は人にはないことを明らかにしています。
B 宗教の目的は「今日のやすらぎと明日のやすらかさのためである。」言い換えれば、宗教はこの世における生が、やすらぎと安定のうちに過ごすことのできるものとなること、そしてあの世における救いを確実にするためのものなのです。これは同時に、宗教が活動の場でもあることを強調するものでもあります。
C 宗教は「知性ある者を、自らの意志と選択を通して、真の価値あるものへと到達させる神の法規である。」この種の定義においては、宗教と人との結びつきに重要性が置かれています。宗教に強制はなく、宗教行為は自由意志によって行なれる、意識的選択という段階にあってこそ、その価値が示されるのだ、ということを明らかにしているのです。
一般的な意味での宗教の重要性
何よりもまず、宗教は人の存在の理由を明らかにします。その生を意味あるものとするのを助けます。目を閉じて、「私は誰なのか。何故私は存在するのか。私の命が終わるとどうなるのか。」という問いを、確実に答えを見つけるという決意のもと、問いかけてみるなら、生きていくうえでの宗教の価値がよりよく把握できるでしょう。なぜなら、私達が備えているものによって、私達が誰であるか、そしてその存在の理由は何であるかということについて若干の分析はできたとしても、そして物質的世界に関する知識がどれほど確固たるものであったとしても、これらのもたらす光では、この世の生が終わった後のことを照らすには十分ではないからです。この段階において宗教がその価値を示し、啓示と呼ばれる知識の源によって、物質を超越した世界への窓を開くのです。
クルアーンでは、「あなたがたは、われが戯れにあなたがたを創ったとでも考えていたのか。またあなたがたは、われに帰されないと考えていたのか。」(信者たち章第115節)とされ、人がその存在の意味を常に問う必要性を強調しています。他の節(部族連合章第72節)でも、「本当にわれは、諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを、担うことを辞退し、且つそれに就いて恐れた。人間はそれを担った。」とし、天や大地や山々が担うことのできない責任を負った、という表現で,人間が責任ある存在であるということに注意を引いています。
宗教は、自由が誤った形で認識されることを防ぎます。つまり、人の本能、個人的な好み、そして自己中心主義に従うことで自由となり、それは無限の自由である、という形で認識されてしまうことです。手にしているものをぞんざいに使い尽くしてしまおうとする方向へと導くこの認識は、人を、自分の熱情や物質の虜とします。自由が束縛へと変遷しているのです。絶対的力と意志の持ち主であられるアッラーに帰依する人は、自らをあらゆるものの下敷きになっていると感じることから救われます。この世において、自らを形作る価値あるものとつながっているということを意識しつつ行動することによって、魂をより尊いものとする、真の自由を味わうのです。
ムスリムが、礼拝の全てのラカート(礼拝を構成する単位)で読むことが義務付けられているファーティフ章での、「わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。」という表現は、この観点から特別な価値を持つものです。この表現は、人が創造主以外のなにものに対しても仕えていないと感じる時に、真の自由に到達できることを示しているのです。信者は、全てのラカートにおいて、崇高なアッラーとの語らいともいえるその部分で、「わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。」と繰り替えすことで、アッラー以外のなにものにも仕えないこと、どれほどの努力を払ってでも人間としての誇りを守ることを述べ、自らに、そしてアッラーに対して誓っているのです。
宗教の本質はアッラーに仕えること、そしてその本質はドゥアー(祈り)です。ドゥアーは、一方ではアッラーを愛情、敬意、賞賛、そして感謝の気持ちで念じること、もう一方では物質的もしくは精神的望みを訴えることとなります。ドゥアーの真の重要性とその影響の及ぼす面とは、まず、人のあらゆる感情や思考がアッラーへの結びつきという軸において集中していること、心をアッラーに広げ、自我と意識の中心にアッラーへの愛情と敬意を定着することです。これらを満たした上で、心から行なわれるドゥアーが、精神的、肉体的な変化をもたらすことは多くの研究者によっても明らかにされています。心を楽にし、落ち着かせ、不安を軽減させる作用が観察されています。
クルアーンでは、ドゥアーの重要性に関する多くの節があります。これらのうち、断食の重要性について説く部分で現れる一つの節を紹介しましょう。「われのしもべたちが、われに就いてあなたに問う時、(言え)われは本当に(しもべたちの)近くにいる。かれがわれに祈る時はその嘆願の祈りに答える。それでわれ(の呼びかけ)に答えさせ、われを信仰させなさい、恐らくかれらは正しく導かれるであろう」(雌牛章第186節)
人生における一連の出来事の中で、肉体的、精神的問題が人々を困難に陥れることがあります。健康問題、災害、災難を受け、近しい人を失ったり、あるいは物質的なものを失ったり、問題を解決できなかったり、孤独であったり、恐れ、悲しみといった感情に支配されていたり、物質的には満たされていても空虚さを感じていたり、人生を苦痛に感じたり、精神的な困難さを感じたり。これらは全て、いつでも人に起こりえる状態です。これらは、人生を、人にとってもがけばもがくほど深みにはまる沼のようなものとします。被造物の中で最も栄誉ある存在とされた人間が、このような沼にはまり込んでいってしまわないよう、宗教は救命ブイの役割を果たすのです。なぜなら宗教は、失望に対する最良の解毒剤であるからです。宗教は人に、希望、慰め、やすらぎを与える、最も安全な避難所なのです。自殺の件数は、精神的な結びつきが強い社会においてより少ないということ、特にイスラーム国家において自殺が特に少ないということは、この見解を支持する事実なのです。
宗教が人間に与える影響について見ていくにあたり、宗教と希望という点について少し考察してみましょう。
宗教は、道徳の基本をも形成するものであり、人の行動に対しては、最も強固な法的制限よりももっと大きな影響力を持ちます。一方で人を内部から包括し、方向付けを行なう宗教は、他方で外面的世界に繁栄される行動を監督する原則でもあります。従って、宗教的信条やモチベーションが低下した場合、その社会における法に沿わない事態が多発するようになります。こういった状態においては道徳もその力の大部分を失います。なぜなら道徳は、宗教という支柱がなければ良心にのみ任された形でしか、影響力を持たなくなるからです。そして社会のマイナス要素は、良心を維持できることを常に可能とするわけではないのです。
宗教は、偽善から遠ざかり、真の愛情を感じることのできる、最も確実な道です。なぜなら、宗教における愛情のうち、最も崇高なものはアッラーへの愛情であり、このような崇高な目的を持った人は、低俗な欲望やはかないこの世での利益のために生じた感情を、真の愛情に混同させることはないからです。イスラームの知識人の中には、宗教上の命令や禁止事項の真髄に二つの意図が存在することを述べる人々もいます。アッラーを称えること、そしてアッラーが創造されたものに愛情や慈しみを示すことです。言い換えるなら、宗教とはアッラーへの愛情の上に成り立ち、被造物に愛情を示すことも、アッラーのご命令の要するものであるがゆえに、そこでの心からの愛情は、最終的にアッラーへの愛情、アッラーに対して感じる敬意の表れと見なすことが可能となるのです。アッラーへの愛情が生まれた心は、愛することに疲れを感じません。なぜならアッラーの慈悲は全てを包括するものを知っているからです。全ての被造物がアッラーの作品であることを理解して、愛情を示すのです。このことをアナトリアの詩人ユヌス・エムレは次のように詠んでいます。「被造物を愛しなさい。創造主ゆえに。」
 
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