信仰生活の喜び

 

 神への愛

 
早いもので、この3月で結婚して9年になる。先日、片付けをしていたら、婚約時代の主人の手紙と私が彼に書き送った手紙の写しがでてきた。なつかしく手紙を読んで、その当時の思いにしばしひたった。今は私も3人の子の母となり、その当時の初々しさは忘れ去られてしまったかのようだが・・・。


主人とはあるムスリマの紹介で知り合ったが、当時彼はサウジアラビアに駐在していたため、結婚して一緒に暮らすまでの約半年間は離れ離れの生活で、まだインターネットも普及しておらず、Eメールのやりとりはできなかったので、連絡手段はもっぱら手紙や電話のやりとりだった。離れていると思いはよけいに募るものだろうか、“寝ても覚めても彼のことばかり”とまではいかなかったが、当時は彼のことを思い出すだけで笑顔がこぼれ、手帳にはさんで持ち歩いていた写真をたまに見てはニタニタしていた。同僚から「最近何かいいことでもあったの?」とたずねられたりするほどで、誰かを愛していると自然と顔の表情も柔和になるのかもしれない。


毎週木曜夜9時に、彼から電話がかかってくることになっていて、その時間はいつも電話の前でスタンバイしていた。ある日、いつもの時間に彼からの電話がなかった。時間を忘れているのだろうか?電話の前を行ったり来たりしながら待つが、1時間たっても2時間たっても電話はかかってこなかった。11時過ぎても電話がなく、その日はあきらめて寝ることにしたが、眠れない。2日たっても電話がなかった。こちらから何度も電話したが、つながらなかった。もしかして事故にあったのだろうか?

 

それとも、もしかして心変わりしたのだろうか?とついついネガティブな方向に考えてしまう。気分はどん底。3日目の夜、彼から電話があった。出張に行っていて電話できなかったという。ほっとして気が抜けた。しかし相手は、私がどんな思いで電話を待っていたか、いつも電話の前にスタンバイしている私の気持ちなど知る由もなかったのだろう。手紙にしても同じように、毎日ポストをのぞいては、まだ来ない、まだ来ないと、彼からの手紙を待ちこがれていた。手紙が来ると天にも昇るような喜びようで、彼の手紙から活力を得ていた。筆不精の私がこまめに手紙を書き送るなど、確実に私の心に彼の占める割合が大きくなっていた。


さて、いま私は当時の彼のことのようにアッラーを思い起し、愛しているだろうか?“愛している”と言ったら私は嘘つきだろう。残念ながら答えは否と言わざるを得ない。アスタグフィルッラー。かろうじて5回の礼拝時やズィクルの時、クルアーンやハディースを読んだり、また勉強会や何かがあったときにアッラーのことを心に留める程度で、その礼拝でさえ心がアッラーから離れ、雑念のうちに礼拝することが多いのが現状だ。


「おお神よ、もし私が地獄の恐怖からあなたを礼拝するのでしたら、私を地獄で焼いて下さい。もし私が天国が欲しくてあなたを礼拝するのでしたら、わたしをそこから追放して下さい。しかし、もし私があなたご自身のためにあなたを礼拝するのでしたら、どうかあなたの永遠の美をお取り下げにならないで下さい」


とは8世紀の聖女ラービアの言葉だが、これこそ究極のアッラーへの愛だと思う。もし“地獄から逃れたい”とか、“天国に入りたい”という目的の為に礼拝をするのであったとすれば、その目的は“アッラー”のためではなく“私(自己の救済)”のためであり、そこにはまだ自我、「私(わたくし)」というものが存在する。しかし彼女はただただアッラーが愛すべき存在であり、アッラーを愛しているからこそ礼拝するのだ。愛ゆえのイバーダ(崇拝行為)、つまり愛するが故に愛しているのだ。


私の場合、まだまだその境地にはほど遠く、実生活の忙しさに追われ、悲しいことに、ズィクルしたり、意識してアッラーを思い起そうとしなければ、なかなか思い起すことができない。しかし本来、愛というのは努力して愛するようなものではないのだろう。彼のことを愛していた時、特に意識して思い起そうとしなくても自然と思い起したくなったし、思い起すことが楽しかったというか嬉しかったのだ。心が彼のことでいっぱいになっていれば何の努力もなく無意識のうちにも思い起すことができるのだろう。ラービアの言う愛とはこのような心の内側から沸き起こってくるような感情で、愛せずにはいられないような気持ちなのだろう。


私にはまだまだアッラーを身近に感じるような体験が必要なのかもしれない。


アッラーのことをもっと近くに感じ、婚約時に彼を思い起していたのと同じくらい、アッラーのことを思い起し、愛せるようになりたい。しかしそれを祈ると、すぐさまそういう心の状況になるような出来事をくだされるような気がしてちょっと恐い。それは私の場合、試練という形をとることが多い。たいてい試練の時は、アッラーだけにより頼み、アッラーとの距離は縮まるものである。“願わくは試練という形ではなく、アッラーをもっと近くに感じ、愛せるようになりますように”とドゥアーしたいが、こういうドゥアーは甘いだろうか・・・?


残念ながら私はズィクルなどして意識しなければなかなかアッラーを思い起すことができないのが現状だ。それは本来の完全な愛の姿ではないかもしれない。しかし、だからといって意識することもイバーダもやめてしまったならば、それでアッラーを愛せるようになるのだろうか?否、きっと私の魂は堕落し、もっともっと心はアッラーから離れ、アッラーのことを忘れてしまうだろう。


意識してでもアッラーのことを思い起し、アッラーの為にイバーダを捧げていれば、いつかアッラーが報いてくださる日がくるだろう。意識せずともアッラーを愛せるようになる日が・・・。アッラーはしもべが歩いて近づいてくるならば、走ってしもべの方に近付いてくださる御方なのだから。

 

 

信仰生活の喜びへ戻る

 

 

前のページへ

次のページへ

copyright © isuramu.com