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久しぶりに都心に出かけた。渋谷に向かうバスの窓から外の風景を眺めていた。黄色く色づいたいちょう並木の葉がパラパラ舞い落ちていく。駅に近付くにつれて、街はクリスマスのイルミネーションで飾られ、人の数も多く、活気付いている。
渋谷駅前の交差点で信号待ちのために停まった。湧いてでてくるような人の多さにびっくりした。渋谷ってこんなに人が多かったかな。スクランブル交差点を渡る人々がまるで大波のように押し寄せてくるようで圧倒される。その光景を見ながらふと思った。
私は彼らの一人一人のことを知ることもなく、覚えることも出来ない。だがアッラーは彼ら一人一人を創り、彼ら一人一人のことを全て知っておられる。
「本当にアッラーは全聴にして全知であられる」(雌牛章2/181)。「アッラーはあなたがたが隠すことも、現わすことも知っておられる」(蜜蜂章16/19)。「一枚の木の葉でも、かれがそれを知らずに落ちることはない」(家畜章6/59)。
何ともアッラーの偉大さを感じ感謝の念がわきおこってくる、と同時にすべてを知るアッラーの御前に常にいるということを考えると身が引き締まる思いがする。
全てのものはアッラーの御意志により存在している。一枚の木の葉も一匹の蟻も一粒の砂も、アッラーが「有れ!」と望まれたからこそ存在している。アッラーが望まなければ何一つとして存在することはないのである。私がいまここに存在しているのもアッラーが望まれ「有れ!」と命じられたからである。
生まれてからこのかた、私の体には途切れることなく血が脈打っている。そのことを考えるだけでも、私は生かされていると感じる。
私は裸で母の胎から生まれてきた。何も持たず、無力な者として生まれ出てきたが、アッラーは私が成長するために必要なものや糧を全て用意していた。子が生まれると母はお乳が出るようになる。このしくみも神秘だと思う。子に歯が生え、自分で食べ物を噛み砕いて食べられるようになるまでの必要な期間お乳が出る。このまえ1歳の息子にバナナを与えながら「バナナって不思議な食べ物だな」と感じていた。甘くておいしい栄養豊富な果物、木の実、穀物、肉、卵、魚など、この世界には私たち人間が食べて生きていくために必要なものが存在している。アッラーこそは「あなたがたのために地上の凡てのものを創られた方」(雌牛章2/29)であり、私たちに糧や恵みを与え、私たちを生かし、養い育てる御方である。
自分が今までどうやって生きてきたかを考えてみよう。自分の手でこれらのものを無から創ることができる者があろうか。
私たち人間に出来ることは、アッラーから授けられた知識と知恵を使って、アッラーが用意された材料や原料を用いて加工したり、地上の代理人としてアッラーから授けられた知識とアッラーが創られ恵みを下さっているものを利用して、植物や動物を養い、それを食しているに過ぎない。
なぜ食べ物自体や自然の恵みやそれを育てた者の労苦に感謝をするのに、大本の生命の源であり、その自然を創られた本当の意味で私たちを養い育て様々な恵みを与えてくださっている創造主であるアッラーに感謝をしないのだろうか。
つまり我々の食する穀物や果実も私たちが無から種をつくり、育てていくことは出来ない。これらが実るには種、土、雨(水)、太陽の光などが必要であるが、これらの何一つとして我々が自らつくり出したものはない。雨の量も多すぎれば種が腐ってしまうし、少なすぎれば枯れてしまう。適度な量の雨がもたらされているのである。
私たちはアッラーを視覚でとらえることは出来ないが、アッラーの印に囲まれて生きている。私たちの身のまわりのものの一つ、また私たち自身をじっくり見れば、そこに人間の力をはるかに超えたものの力を、またそれによって実にバランスよくこの世界が管理されていることを感じずにはいられない。
先日読んでいた本の中で面白い話があったので紹介する。
“小さな魚が年輩の魚にたずねた。
「海と呼ばれるものはどこで見つけることが出来ますか?」
「今あなたのいる所が海だ」
「ここ?でもここは水ですよ。私が探しているのは海です」
がっかりした小さな魚はどこか他の場所を探し求めて泳いでいってしまった。
・・・
小さい魚よ、探し求めるのをやめなさい。探すべきものは何もない。あなたがするべきことはただ見ることだ。”
クルアーンにも以下のようにある。
「東も西も、アッラーの有であり、あなたがたがどこに向いても、アッラーの御前にある。」(雌牛章2/115)「地上には信心深い者たちへの種々の印があり、またあなたがた自身の中にもある。それでもあなたがたは見ようとしないのか。」(撒き散らすもの章51/20-21)。
人は「アッラーはどこにいるのか」と探し求めたりする。しかし、探し求める必要はない。目の前にある全てのものはアッラーの印であり、私の存在そのものもまたアッラーの印なのだ。アッラーはどこか遠くにあるのではない。私たちはどこにいてもアッラーの御前にいる。私たちはみなアッラーのうちに生きているのだ。
私たちに必要なことはただ「見ること」。熟考すること。私自身のうちにアッラーの印である神秘があり、真理が隠されている。その真理を見出すことである。それを見出せば私たちはどのように生きたらよいのかを見つけることもできるのである。
 
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