信仰生活の喜び

 

 アッラーとの約束

 
赤ちゃんというのは実にかわいい。ずっと見ていてもあきない。寝顔を見ているとあっという間に時間がたってしまう。その安らかな寝顔を見ていると、見ているだけで心が和むし、優しい気持ちになれる。純粋無垢の笑顔を向けられると、思わずこちらも微笑み返してしまう。赤ちゃんはその愛らしい微笑だけで、人々の心に安らぎと優しさをもたらす。“子供は全てフィトラ(本然の姿)を持って生れてくる”というハディースにうなずいてしまう。


こんなかわいい子を、それも愛しい我が子を犠牲に捧げることなどできるのだろうか?否、私にはできない。
今年もイード・ル・アドハー(犠牲祭)が近づいてくる。イブラーヒームが神の命でイスマーイールを犠牲に捧げようとした、という伝承を思いおこす。


はじめてこの話を聞いたときはひどい話だと思った。このような形で人の心(信仰)を試みるなんて、アッラーはひどい神だと思った。それにイブラーヒームの気持ちも私には長らく理解できなかった。なんて薄情なんだ、子に対する愛情がないのだろうか?石のように冷たい心の持ち主だ、と思っていた。


だが今はこう思う。イブラーヒームもきっと苦しんだであろう、どんなに辛かっただろうと思う。長く子供ができず、ようやく授かったその子を差し出せと言われたのだ。しかし彼はアッラーを疑わず、差し出す。彼は主がだれであるのかを知っていた。全てのものはアッラーによって創造された。我が息子でさえ。その主に対する絶対な信頼と服従。それが彼の信仰だった。人間的な思いを越えて、信仰が感情に勝っていたのだ。信仰が試されている。私には・・・やはりできないだろう。そのような試みは勘弁してほしいと思う。


私はこの伝承を思い起こすたびに背筋にピンと緊張がはしるのを感じる。そしてアッラーと交わしたある約束を思い出す。


私は前からずっと3人目がほしいと思っていた。できれば男の子がほしかった。が、なかなかできず、2度も流産した。私はこのことをとおして自分の無力さ、子供の命は自分のものではないということを学んだ。もう子供は生まない方がよいということなのかな、とも思った。でも“3度目の正直”ということばもある。もう1回だけトライしようと思った。次も流産したら、それはアッラーの御心なのだとあきらめようと思った。体力的にもこれが最後だろうと思った。


私はアッラーに祈った。“流産を繰り返すのはもう辛いので、また流産する運命ならもう子供を授けないで下さい。もしイスラームのために必要ならば、子供を授けてください”、と。その祈願はかなえられ、命を授かった。そのとき、“この子はイスラームのダアワのためにアッラーに捧げます”と約束した。また流産するかもという心配もあったが、心の底ではインシャアッラー、この子は生きるだろうと信じていた。


妊娠中はずっと命を預かっている感じだった。我が子ではあるが、自分の子というよりはアッラーからの預かりものという感じだった。超音波で医師から“男の子ですね”と言われたその瞬間、ハッと私はアッラーとの約束を思い出した。待望の男の子でうれしいのだが、その喜びと共に、アッラーとの約束どおりこの子はいつかイスラームのためにアッラーに捧げなければと、いつか自分の手元を離れていくことを思うと少し寂しさとともに覚悟をした。


アルハムドリッラー、無事に元気な男の子が誕生した。育てているうちにあまりのかわいさに、アッラーとの約束を忘れて溺愛しそうになりそうだ。


そんなとき、またイード・ル・アドハーが近づいてくる。まるで私の心を戒めるかのように。アッラーとの約束を忘れないように。忘れてはいけない。その子はアッラーによって創造されたことを・・・。アッラーの御心ならばいつでもとりあげられてしまうかもしれない命。その命は私の手の中にあるのではない。アッラーの御手の中にあるということを・・・。主がだれであるかを私もこの子も決して忘れてはならないのだ。そのことを肝に銘じて、アッラーから預かった大切な命を“アッラーに従うもの(ムスリム)”となるように、大切に育てていこうと思う。それが子供を授けてくれたアッラーへの感謝と、その命を預かっている者の責任だと思う。

 

 

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