信仰生活の喜び

 

 思いやり

 
ある日のこと、私はささやかな楽しみとして大好物のジュースを1本買ってきて、キッチンドリンカーのごとく台所で隠れてそのジュースを少しずつ飲んでいた。楽しみを明日もとっておこうと、ジュースを半分残しておいた。


あくる日、冷蔵庫を開けるとジュースがない。気が付くと、主人と子供たちがそのジュースを飲んでいた。思わず私は、「あっ、そのジュース、私のジュースなのに・・・」と言ってしまった。


主人から「私のジュースってなんだよ!このジュース、独り占めしようと思っていたのか。」とあきれられた。
娘の一人は「ママ、飲んでいいよ。」と、飲みかけのコップを私に差し出した。私はちょっと恥ずかしくなった。主人から「娘を見習え!」と言われてしまった。


娘はおやつにケーキを食べる時など、いつもその場にいない父親のために自分の大好物のケーキにもかかわらず、「パパにとっておく」と言って半分残そうとする。「パパの分は冷蔵庫にちゃんと取ってあるよ」と言うと、安心して自分の分を食べる。


我が娘ながらどうして幼いのにこんなふうに自分の食べたい気持ちを抑えて、他人を思いやることができるのだろうと不思議に思う。私は大好物のケーキが目の前にあったら、少しでも大きいものを取りたいと思うほうである。さすがに大人になって遠慮するようになったが、それでも心の中ではひそかに大きいケーキをねらっていて、そのケーキが手元にまわってくると、「ラッキー!」と思ってしまう。


以前、ある先生に「私は我執が強く、なかなか捨て去ることができないのですが、我執を捨てるにはどうしたらよいですか?」とたずねると、「断食しなさい」と言われたことがある。食に貪欲な私にとってまさに断食は我執を捨て去るよい訓練なのかもしれない。


最近、2ヶ所でサハーバ(教友)の同じ話を聞く機会があった。


それは、ヤルムークの戦いの日にサハーバのもとに水の入った器がもたらされたとき、サハーバたちは重傷を負って死に瀕していてひどく喉が渇いていたにもかかわらず、自分よりも他人を優先させて水を譲ったという話である。


“重傷を負って瀕死状態のサハーバの一人のところに水を持っていくと、彼は同じく重傷を負って倒れている友に気付き、「先に彼に水をあげてくれ」と言った。それで器を持った人が2人目のサハーバのもとに水を持って行くと、彼も別の瀕死状態の友に水を譲って、先にその水を飲ませるように言った。そこで、器を持った人が3人目のサハーバのところに水を持っていくと、既に彼は死んでいた。そこで、先に水を譲った2人の元に戻ってみると、2人とも既に息絶えていた。”

戦場で瀕死の状態、想像してみても、修羅場で己の我や欲望が一番醜くあらわれるような場面でもある。
私だったらきっと、我先にと水の器を奪い取り、一人でゴクゴクと飲み干してしまいそうである。


いったいこのサハーバたちはどうしてこのようなことができるのだろう。もともと性格がよいのだろうか、それとも信仰のなせる業だろうか。


ずっとこの話が心の残り、詳しい話が知りたくて、どこにこの話が書かれているのかハディースを探したが見つからない。主人に聞いてみると、「サハーバ物語」に書かれているということで、主人にアラビア語のそれを訳してもらった。


主人から「水を譲った者の1人はイクリマという人だけど、彼は誰の息子だと思う?あなたの知っている人だ。」とたずねられ、きっと預言者に協力していた人だろうと思って心当たりの人をあげてみたが当たらず、「イクリマはアブー・ジャハルの息子だ」と聞いて耳を疑った。アブー・ジャハルといえば、預言者に最も敵対していた人だったではないか。そしてイクリマ自身もまた預言者の敵だった人である。


ますますイクリマの話に興味を持った。預言者の最大の敵の一人だったイクリマがどうしてイスラームのために殉教するまでになったのか、預言者のどのような態度が彼の心を変えていったのか、その心の変化を知りたくてたまらなくなった。


インシャアッラー、次回、その「イクリマの話」をしようと思う。

 

 

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