信仰生活の喜び

 

 受け入れる

 
数ヶ月前に友人ムスリマから「信仰に対する感謝はどうやってあらわしたらよいと思いますか?」と問われた。答えにつまった。何だろう。感謝って、ありがたいと思うこと?それをあらわすというのは・・・。礼拝かな?ズィクルかな?と考えたが、適切な答えが浮かばなかった。


「それはどうやってあらわすのですか?」と逆にたずねると、「受け入れること」です。「不平不満を言わず、喜びも悲しむことでも、すべてを受け入れることです。」(M・F・ギュレン師のことば)という答え。


うーん、むずかしい、と思った。自分にとって良いことであれば喜んで受け入れることができるだろうが、辛いこと、悲しいことを受け入れるのは難しいな、と感じた。


それはアッラーへの深い信頼がなければできないことだと思った。信仰とはどういうものかを考えさせられるきっかけとなった。


その後、マザーテレサの本を読んでいて、
「喜びは祈り、喜びは力、喜びは愛。神は喜んで与える人を愛されます。私たちが、神と人々に、感謝の心を表すいちばん良い方法は、どんなことでも喜んで受け入れることです。」という言葉に出会った。


あー、ここでも感謝の表し方は「受け入れること」だ。


先の言葉がずっと心に残っていて、それについて考えていたので、またもや同じ言葉にぶつかり、いったいこれはどうしたことか、と不思議な気持ちになった。


「全てのものはアッラーからもたらされる」という深い信仰があってこそ言える言葉だと思う。私などは、災厄がふりかかると、「なぜ?」「どうして?」と不平不満、愚痴を言ってしまう。まだまだ信仰が足りない。アッラーへの信頼が足りないから、そのような愚痴がでるのだろう。


同じようなことを考えさせられたのは、クルアーンの洞窟章(18章)のムーサーとヒドルとの会話だった。私はここにかかれているムーサーのように度々質問したり、とがめたりしてしまうだろう。


この箇所を読んだ時、「視点」について、アッラーの視点と人間の視点のちがい、また同じく、“信頼”とはどういうことか、“信じる”ということがどういうことかを考えさせられた。

 

 

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