信仰生活の喜び

 

 一つとして自分のものはない

 
日めくりカレンダー(丸山敏雄名言集)に目がとまり、その言葉にしばしくぎづけになった。

「一つとして自分のものはない」


その日、その時、私はまさにその言葉に出会う必要があった。
全てのものはアッラーから与えられたもの。この手も足も、この舌も、視覚も聴覚も、あらゆる能力も、またアッラーから与えられたこの体と能力を使って得た成功も、全ての真の行為者はアッラーであるのに、私は時々そのことを忘れている。


その日も、私は自らの成功を喜んでいた。そしてそれがアッラーによって与えられたものであることを忘れていた。


毎晩、寝る前にクルアーンやハディースを読むことを日課にしているが、アッラーはその時々の私の精神状態に適切な言葉と出会わせてくれる。今日はどんな言葉に出会うかと楽しみに読んでいる。クルアーンは私にとって時には慰めで安らぎの書であり、また時には厳しい戒めの書でもある。いつもどこを読むと決めているわけでなく、パラパラと適当に開いた箇所を読んでいるのだが、私が失敗したり、気持ちが落ち込んでいる時は慰め励ましとなる言葉に出会うし、逆に私が自信過剰になり、うぬぼれが強い時にはそれを戒める言葉に出会う。


しばしば私は、「今日はうまくいった」などと成功を自分の力で得たかのように過信してしまうことがある。あるいは人からの称賛を耳にすると私の心にうぬぼれの気持ちがわきおこってくるのを感じることがある。元来うぬぼれの強い方なので、自分の心を省みて、ニーヤ(意図)がくもっていないか注意しなければならない。「私は正しい」などと思い上がり、無意識のうちに人を裁いていたり、うぬぼれている時は、「本当にアッラーは、自惚れの強い高慢な者を御好みになられない。」(鉄章57/23)というような言葉に出会わせ、自分の高慢さに気付かせてくれる。


あるいはますますうぬぼれが強くなり、傲慢になってくると、必ずやアッラーはそのうぬぼれをぺしゃんこにして、プライドを粉々に打ち砕き、己の無力さ、惨めさを思い知らせるような出来事を下される。それは私にとって試練であるが、必要なことなのだ。私は何度も同じ過ちを繰り返し、悔悟しアッラーのもとに帰っても、しばらくすると、また性懲りもなく、思い上がりがムクムクとわきおこり、うぬぼれがニョキニョキと芽を出してきて、我執にとらわれていく。そのたびにアッラーは私を見捨てず、試練を与え、私の心を自分中心からアッラーの方へと心の向きを軌道修正してくれるような出来事を下される。それは私にとって辛く痛い愛のムチであるが、アッラーが私を見捨てないことに感謝しなければならない。


私が日々犯す過ちの多くは傲慢による罪である。数々の恩恵をアッラーから受けているにもかかわらず、それに気付かない罪、感謝しない罪、自分の力で成し得たと思う思い上がりの罪、無意識のうちに人を裁いている罪、自分は正しいと思ううぬぼれの罪、他人に対する妬みの気持ち、などなど・・・。


傲慢なとき、私はアッラーを忘れている。傲慢の罪こそはアッラーから最も遠く離れている状態で、アッラーが最も嫌われる罪である。「心にからし種の実ほどでも高慢さをもつ者は、天国に入ることはないだろう」(「サヒーフ ムスリム」第1巻75ページ)


それをくり返している私は、「アッラーの慈悲によってのみ救われる」(「サヒーフ ムスリム」第3巻695ページ)、「自分の魂に背いて過ちを犯したわがしもべたちよ。それでもアッラーの慈悲に絶望してはならない。アッラーは、本当に凡ての罪を赦される。かれは寛容にして慈悲深くあられる。」(集団章39/53)という言葉を頼りにして、アッラーに許しを乞い、慈悲を願うほかない存在である。


「一つとして自分のものはない」、全てはアッラーから与えられたもの。そのことを意識することによって、感謝の気持ちも生まれてくる。私はけがや病気になってその能力を失ったりすることで、その時はじめて頂いていたものへのありがたさを感じたりする。私は何て鈍感なんだろう。クルアーンにたびたび書かれている“忘恩の徒”とはまさに私のことだと思う。私たちはただ、頂いたものをありがたく使わせていただいているだけ。いずれは全て、元のアッラーにお返しする日が来る。その時まで、アッラーから頂いた全てのものをどのように受け取り、何の為にどのように使ったかが試されているのだろう。


「かれらが(審判の席)に来ると、その耳や目や皮膚は、かれらの行ってきたことを、かれらの意に背いて証言する。」(フッスィラ章41/20)

 

 

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