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M.F.ギュレン氏とのインタビュー |
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ZAMAN(ザマン)新聞より |
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健康上の理由からアメリカに滞在するフェトゥフッラー・ギュレン氏が5年という長い沈黙の期間を経て、初めてヌリエ・アクマンに語った。このインタビューのいろいろな質問や答えをこれから何回かに分けて「やすらぎ」の中で紹介します。
そして10年後、アメリカで今回はザマン新聞の名のもと、インタビューをするという機会を得た。ここで機会という言葉を使ったのは、私自身、1新聞記者としてこの5年間、その他大勢の同業者がそうであった様に、彼がアメリカでどういった生活を送り、そしてまたこれほど長い期間、母国から離れて暮らすことが彼にもたらす感情と、それが彼の思想にいかに反映されたか、いつトルコに帰国するのかといったような興味を持ち、そしてこれら疑問・興味に対する彼の説明を報道する初の新聞記者となりたいと思っていたからである。こうして流罪人の様な生活を送るその中で、彼とこうして向かい合う機会を与えられるとはなんて幸運なのだろうと感じている。」
質問:イスラーム社会はずっと長い間、「イスラームとテロは相容れないものだ」と言い、傍観していました。しかし9.11が起きました。それに続いてトルコを含めて多くの国々で爆弾事件が発生しました。こういった活動を行う者たちは我々内部からでてきた者たちです。何よりも先に我々自身が抗議行動を起こすべきではなかったでしょうか?
誰も自爆テロリストになることを許されていません。誰も身体に爆弾を巻きつけ、無実の人々の中に飛び込むことを許されていません。その集団がどの宗教に属するものであったとしても、許されてはいないのです。戦争状態にあったとしても、そういった状態の中では均衡は破られがちですが、それでも人を殺すことは許されていないのです。預言者ムハンマドは、子供たちを傷つけるな、教会で祈りを捧げる者たちに触れるなと仰いました。その当時そう言われていたからといって、それが終わってしまったとはいえません。預言者ムハンマドが何と仰ったにしろ、それはアブー・バクル(第一のカリフ)によっても語られ、アブー・バクルが語ったことは、ウマル(第三のカリフ)によっても語られ、ウマルが語ったことはその後の時代においてサラーフッディーン・アイユーブ(アイユーブ朝の創始者)によって語られました。
それはアルプ・アルスラン(セルチュク朝第二のスルタン)によって、そしてクルチュ・アルスランによって語られ、ファーティヒ(メフメット2世)も同じことを語ったはずです。そうして語り継がれてきたのです。だからこそ混沌のコンスタンチノープルはイスタンブールとなり得たのです。つまり、ローマ人もアルメニア人もお互いを干渉することはありませんでした。イスラーム教徒も彼らに何ら危害を加えることはありませんでした。イスタンブールが征服された後、ギリシャ聖堂にはファーティヒのそれは大きな肖像がありました。当時はこういった感じだったのです。ギリシャ聖堂の神父を呼び、聖堂の鍵を渡したそうです。ギリシャ正教の信者たちは当時を懐かしんでいます。当時はあらゆる思想が尊重されていました。しかしながら今日、何事にも欠陥があるように、イスラームを理解する上でも欠陥があります。
でもこうした人たちにだってお互いに我慢ならないようなところがあるでしょうから、これまた戦線を作り出してしまうことだって出来る。そうしててんでばらばらに、自分はこれこれこういった人に対して戦争を宣言する、なんて始めてしまう。キリスト教に対して寛容なある人に対して、また別の人が「奴はキリスト教に協力している。イスラーム教を軽視している。戦争を宣言すべきだ。奴は殺してしまわなきゃならない。」なんて言ってまた別の戦争を宣言する。政府が戦争を宣言しない限り戦争には向かうべきではないのです。戦争ってものはそれほど簡単なものではありません。もし誰か、そう、私が最も敬愛する学者が行ったとしても、それは正しくはありません。なぜならそれは、イスラームの理念に反するものだからです。イスラームには平和と戦争に関する法が明確に示されているからです。 |
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