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困難な時に唱える特別なドゥアーがある。これらは困難が取り除かれるまで唱えつづける必要がある。ここで最も大切なのは友人達の間でなされるドゥアーであり、その時に沸き起こる精神的高揚である。ちょうどフェルハトがシリン(注1)に会うために、目の前の山をのり越えようとした時、彼の心の中にわき起こったあの感情の高ぶり、まさにそれと同じような精神的な高揚である。さらに、明白な宗教であるイスラームの栄誉に対して感じるこの高揚はフェルハトやマジュヌーン(注2)に沸き起こった感情の高ぶりより、何千倍、何百万倍も強いものである。(ライラー、シリン、フェルハト、マジュヌーンは私にとって重要なことでは全くないが、人間の生得的感情を否定すべきではないだろう。)この世にはたくさんのシリン達やライラー達がいる。そのためこのような喩えをあげたのだが、自発的でない、「ドゥアーをしよう」といわれて強制的な形で成されるドゥアーはドゥアーとはいえない。
ドゥアーの仕方では、私はいつもみんなで共にする立場を支持している。なぜなら、友人達の幾人かが醸し出す清浄な雰囲気は、他の人々へ影響を及ぼし、心のやすらぎの原因となるからである。これはその集まりに参加している人々に均衡の取れたふるまい、覚醒、真剣さを与えることになる。が、他方、サジャーダの上で一人黙々とアッラーに向かい、すべてを彼に打ち明けることは、もちろん違った意味で、共にするドゥアーよりもより優れているといえる。
さよう、誰にも知られず見られず、腕を大きく掲げて心を主に向け、心が満たされることの価値は、比類なくすばらしい。
純粋な僕とは?を説明する場合、ドゥアーは数多くなされる礼拝や数多くなされる断食よりも重要であるといえよう。なぜなら、ドゥアーは原因と条件に関係なく、思考を超越しており、因果関係の一致の原則に従って思考しても、思いも考えもつかないことをムセッビブルエスバーブ(すべての原因を所持しそれを創造されるアッラー)に望むことであるから。たとえば、天国・・・あなたは天国をどのように手に入れれことができるだろうか。墓での生活はどのように過ごすのだろうか。黄泉への橋をどのように渡りきることができるのだろう。
ドゥアーをする時、誇張をしないことは基本的事項の1つである。しかし、ある者達は数多くドゥアーしないことだと捉える。私の理解するところでは、この種の説明は間違いである。正しくは、ドゥアーを数多くしないことではなく、ドゥアーをする時、不必要な細目に立ち入らないことである。たとえば、「アッラーよ、私のこの仕事が成し遂げられますように。黒いまつげの黒い瞳の息子が授かりますように。髪の毛が全部抜ませんように。私に天国を与え給え。天国の斜面の右側には何々を、左側にはこれこれを、川はこのように流れるよう、そのように天女たちは侍るように・・・」など、これらはドゥアーではなくただの無駄話に過ぎない。
含蓄ある言葉(音)でドゥアーをすることは、もっとも大切な基本のひとつである。「アッラーよ、来世で私達に幸いを賜い、また現世でも幸いを与え賜え」の「幸い(ハサナ)」という言葉や「アッラーよ、すべてのことにおいて良い結果をお与えください。」の「すべての仕事、状態、気分(フィルウムーリクッリハー)」という句や「アッラーよ、預言者(S)がお望みになった善きことを私はあなたに望みます。そして預言者(S)が加護を求めた悪しきことからお守りくださるようあなたに望みます。」というドゥアーの「彼の望んだ善きこと、彼が加護を求めた悪しきこと」という句などが含蓄ある言葉のよい例である。私はこのドゥアーの最後にいろいろとつけ加えてこのような形で唱えている。「アッラーよ、すべてのエンビヤー(預言者達ナビー)、ムルセリーン(預言者達ラスール)、エヴリヤー(アッラーの友たち)、アスフィヤー(篤信に生きるアッラーの友たち)、ムカッレビーン(アッラーの近くにいる人々)、ムクブーリーン(アッラーのおそばで、彼に受け入れられた人々)がお望みになった善きことを私はあなたに望みます。そしてエンビヤー、ムルセリーン、エヴリヤー、アスフィヤー、ムカッレビーン、ムクブーリーンが加護を求めた悪しきことからお守りくださるようあなたに望みます。」
この他、次のドゥアーも含蓄あるドゥアーでありえるだろう。「アッラーよ、最初の日からこの瞬間まで私が望んだすべての善きことをあなたに望みます。最初の日からこの瞬間まで私があなたに加護を求めたすべての悪しきことからお守りくださるようあなたに望みます。」
「アッラーよ、あなたが愛で給うこと、承諾なさることを私達に成し遂げさせ給え。アッラーよ、赦しと健康と承諾を与え給え。」も大変よく唱えられる大切なドゥアーのひとつである。さよう、自分自身に対してのドゥアーにおいてでも、ドゥアーがアッラーに喜ばれ、愛で給われ、承諾される事柄を懇願なさい。なぜなら、大切なのは、彼(アッラー)のご満悦のみであるから。
注1:フェルハトとシリンの物語は、トルコ、イラン文学で有名な恋人達のお話である。
注2:マジュヌーンとライラーの有名な恋人達の物語がある。
真の愛(情熱)
真の情熱は、預言者達においても学者においても、基本的には同じである。しかし顕現の方法に違いがある。つまり、その情熱に到達する生きる方向性にちょっとした違いがある。たとえば、預言者達においては、彼ら自身が決まり(律法)を作ったり廃止したりできるので、間違いが起こらない。しかし、学者達には起こり得る。真の情熱になしに知は存在せず、知への情熱なしに探求への情熱は存在しない。


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